Amazonが、"本は本屋で買うもの"という伝統文化(伝統というほど長くはないが)を変えたように、今世界では、"映画は映画館で見るもの"という伝統文化が危機に瀕している。
カンヌ映画祭とネットフリックスの攻防から見える「映画」の危機(想田和弘)
今年のカンヌ国際映画祭と言えば、是枝裕和監督の『万引き家族』が最高賞であるパルムドールを受賞したことや、濱口竜介監督『寝ても覚めても』がコンペ入りしたことなどが話題だったが、その陰で気になる出来事があった。ネット配信大手のネットフリックスが、製作した作品のカンヌ映画祭への全面不参加を決めたという「事件」である。
カンヌ映画祭は今年から、「フランスで劇場公開しない作品はコンペティション部門に参加できない」という新しいルールを設けた。ネットでしか配信されない作品は“映画”ではない、という認識なのであろう。これに反発したネットフリックスが、自社の作品の映画祭参加をボイコットしたわけである。
いよいよ、あのカンヌをボイコットできるまでに、ネットフリックスは力を持ってしまったのか……。それが僕が抱いた最初の感想である。
次々と本屋が潰れ、大フロアの書店では売り場が縮小していく様を見る時、出版に関わる人々が感じたであろうことを、映画業界が感じ始めている。
今の時代に生きていて、自分の人生の範囲でしか知らないのに"伝統的な"と感じるものがあるが、そんな古い価値観を称して"昭和な"と呼ぶものがある。
このエントリーは長文だし、気合を入れないと読むことが難しいので、時間があるときにゆっくり読むことをオススメする。
日大のアメフト事件を絡め、戦争中の日本人がどういう生き方をしていたか、それらが日本人にどういう影響を与えているかということが書かれている。
日本人だったら誰もが自分の心の片隅に凄く邪悪なダークなドロドロしたものが渦巻くことを感じることがある(それはほとんどの人が他人には見せないようにしてるだろうが)かもしれないが、それは伝統的な感情なのかもと感じさせることが書いてある。
そして最後はこう締めくくっている。
平成も終わりが近づいているが、来るべき新しい時代は、あらためて昭和をいい形で終わらせ、一人々々が自分で思考し、哲学し、教養を涵養し、そして新しい世界を切り開いていける時代にしていく必要がある。
"何か"が終わることは、その"何か"に関わってる人が虐げられてると感じがちだが、実際には、別の"何か"をスタートさせることにつながってるはずだ。
昭和な価値観では、"何か"を始めるときは勝算があることを事前に確認したがる。
しかし、何かを始めるときに自信はあっても、勝算など本来は無いものだ。
今では当たり前のグローバル化は、15世紀にスタートした大航海時代が始まりだと感じるが、マゼランが1522年に世界1周を成し遂げるまで、地球が球体であるということは理屈上の話であり、「海には魔物が住んでいる」と考える船乗りの中には、「海の果ては滝になって宇宙に落ちている」と考える者もいただろう、当時の航海に勝算などあっただろうか。
"何か"を始めるということは、本来は、いつの時代も冒険なのだ。
昭和から平成と続き、あと1年で平成も終わるが、私を含め多くの人にとって、"何か"とは、始まるものも終わるものも、突き詰めると『人間関係』だったように思える。
日本では、人間関係とは所属や帰属に基づくことを意味することが長かったので、その中でどの役割を演じるかを指すことが中心だったように感じる。
しかし、所属や帰属に基づく関係性が薄くなる現代では、演じる役割が少なくなっている。
逆に言うなら、薄い関係性の中では、一人一人が主役を演じざるを得なくなっている。
昭和から続いた、必要とされる役割が多かった時代は、主役になりたくない人も大勢いたが、それぞれに収まるべき役割が提供された時代でもあった。
機械化、自動化、IT化、そしてこれから進歩するAI化は、ますます人間の役割を減らしていくだろう。
そして、最後に残るのは主役だけになる。
一人一人が主役になるしかなくなるのだ。
AIが仕事を奪うとよく言うが、奪われるのは主役以外の役割だ。
じゃあ、何をして主役になれば良いのか?
新しい大航海時代の始まりだ。