違う見方

これから時代はどう変化するのかを時事ネタを交えて考察。考える際のヒント。気付くためのヒント。時には詭弁を弄します。今書いてることと、以前書いた内容が食い違う場合は、遺言と同じで新しいものが私の考えです。

メッセージが不在のコミュニケーション!

個人ブログは、自分自身をフィルターとして、そこを透過したものがコンテンツとなるのに対し、出版される本は、著者が書いてるがそれは編集者というフィルターをくぐり抜けたものになる。(と思っている)

 

そんな編集者の話を聞いた方の話が下記で、その編集者とは柿内芳文さんという方でこのような本の編集者だ。

 

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』

ウェブはバカと暇人のもの

『99.9%は仮説』

『若者はなぜ3年で辞めるのか?』

『嫌われる勇気』

『漫画君たちはどう生きるか

 

 

天才編集者のお話は本当に素晴らしかった

では、当日の柿内氏のお話から、私がメモすることができた内容を以下に列記してみる。

 

<出版社/編集者の役割>

出版社とは、たった一人の頭にやどる知識、思想を公共財にする存在。 文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割。 爆発した後は、出版社の手には負えない。 『書き手の狂気』『狂っている人』を扱いたい。知名度はあまり関係ない。基本的 に無名の人を相手にしたい。 狂気を持っている人の強い言葉をそのまま出せれば売れる。 平均的な、バランスを取っている表現は、狂気が足りず面白くない

 

 

<編集者の心得>

やることについては、常に必ず言葉にする。そうするとぶれないし、訓練にな る。 編集者は、平均的になりがち。 プロの編集者を定義することが必要だが、難しい。 いかに突き抜けたものを持っているかがプロの条件。 社会性はゼロでも、何かが突き抜けているとプロとしてやっていける可能性がある。

 

普段から何でも定義することを心掛けていて、その点では自分 はプロだと思う。

 

 

下線、太字は私が入れたが、この部分に書いてあることは、いわゆる炎上に通じる世界観なのかもしれない。

  

リアルな本の世界では、編集者の目に留まる所からスタートするし、映画やドラマの世界では、何度も出版社に作品を送り続けても編集者の目に留まらなくて苦悩する作家の姿が描かれたストーリーを見ることがあるが、たくさんの作品を一度に見続けることが日常になってる人(=編集者)にとって、バランスの良さ(=平均的)はマイナスとなるのかもしれない。

 

バランスの良さが、面白みの無さにつながるというと、思い出すことばがある。

 

"非の打ち所がないという悪徳"ということばがあったなと思って検索すると、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」の一説だったと出てきた。

 

上記の引用記事には、狂気についての補足説明もあった。

 

『世の中に伝わっていないが良いものをどう伝えるかが重要』というところだ。有名人ではなくても、『狂気』と言っていいくらいの強いメッセージ性を持つ人間の頭に宿る、知識、思想を公共財にする、すなわち文化的遺伝子の爆発をお手伝いする役割という定義は本当に素晴らしい。

 

ことばが迫ってこなければメッセージにはならないが、それを狂気と表現するということは、誤解されることを恐れない気持ちが(編集者に)要求される。

 

だからこそ編集者はたくさんいても、優秀な編集者となると少数になるだろう。

 

 

では、凡庸な編集者の目に留まる人々とは、どんな人だろうか?

 

 

一方、売れっ子の作家以外は、編集者がどんな人であれ、編集者だけが頼りとなるが、話の焦点はそこに込められたメッセージではなく、お金の話だ。

 

 

 

狂気の無いメッセージは、ビジネスライクになりがちだから、売れさえすれば良く、売れ方は問わない。

 

 

『狂気』と言っていいくらいの強いメッセージ性が伝えようとすることは、読んだ後に、その次の行動を取らせることで、つまり啓蒙が目的。

 

それに対し売れることだけを目指してる場合は、読んでおもしろかったと思わせるだけで十分で、それは啓蒙にはならず、せいぜい次回作への期待を持たせれられれば成功というマーケティング的な視点に留まる。

 

 

 

SNSの発達で、目利き力を持った人々が発するメッセージにリーチできるためのハードルは大きく下がったはずなのに、そんなメッセージを受け取ることのハードルは上がってしまった時代になっている。

 

そういうメッセージは、上手く伝わらずに埋もれてしまうのだ。

 

また、分野を問わず、目利き力が衰退している。

 

テレビ番組で、売れ筋の有名タレントを多数起用したり、ヒットの要素を盛り込んでも必ずしもヒットするわけではないところを見ると、その道のプロというだけでは一般大衆というマスを捉えることが難しくなっていると言えそうだ。

 

しかし、ここで考えなければいけないことは、目利き力は発信する側だけに必要なのではなく、受け取る側にも必要なのだ。

 

発信する側のメッセージが埋もれて届かないのは、受け取る側の問題でもあるのだ。

 

西日本豪雨検証
伝わらぬ切迫感 誤解生んだ緊急メール 毎日新聞2018年7月31日

気象庁は前代未聞の規模で「最後通告」を発していた。その切迫感が自治体や住民には十分に伝わらず、「平成最悪」の広域豪雨災害となった。

 

 

 

気象関連で頻繁に耳にする"50年に一度の"と形容される異常ぶりは、「またか」と思わせ、緊迫感を感じさせない表現になっている。

 

「またか」と思う気持ちが緊迫感を弱める場合もあるだろうが、思い出したことがある。

 

本来危険なことやピンチを意味していた"やばい"が、プラスのニュアンスを持ち出したことと、メッセージが伝わらないという現象に共通点があるような気がする。

 

"やばい"の意味が変わりだしたのはいつ頃なのだろうか?

 

やばいとは「危ない」「悪事がみつかりそう」「身の危険が迫っている」など不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として、江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉である。その後、やばいは戦後のヤミ市などで一般にも広がり、同様の意味で使われる。1980年代に入ると若者の間で「怪しい」「格好悪い」といった意味でも使われるようになるが、この段階ではまだ否定的な意味でしか使用されていない。これが1990年代に入ると「凄い」「のめり込みそうなくらい魅力的」といった肯定的な意味でも使われるようになる。

http://zokugo-dict.com/36ya/yabai.htm

 

 

 

 

"やばい"にプラスのニュアンスが定着し始めたのが21世紀直前という話も検索すると出てくる。

 

ちなみに、私は"やばい"を肯定的なニュアンスで使うことは未だにできない。

 

「なんかやばそうだよ!」と言った場合、結構な確率で伝えたいことが間違って伝わりそうだ。

 

 

メッセージは、言いっぱなしでは伝わらないし、聞きっぱなしでは受け取ることができない。

 

こうして、メッセージが不在のコミュニケーションが増えている。