先日話題にした錯覚資産(=勘違いさせる力)は、いろいろな有名人に当て嵌まりそうだが、中でも相手をdisりたい場合には威力を発揮しそうだ。
だから最近話題のボクシング連盟の山根会長なんかは、ツッコミどころ満載って感じだ。
うわああ。アマゾン全体で3位に! まさか、枝野さんとランキング争いする日が来るとは。。 pic.twitter.com/PrhoLopfHf
— ふろむだ🍀新著がAmazon1位(心理学) (@fromdusktildawn) August 12, 2018
お笑いの一発屋芸人などは、チャンスをモノにして一気に有名になれるのだが、彼ら彼女らの不幸は、持ちネタが一つしかない状態で有名になり、その持ちネタを消費し切った後には何も残らないため、飽きられ、人々を錯覚させ続けることができない、と説明できる。
そう考えると、下積みが無く、いきなり売れることは、幸せなようで不幸かもしれない。
では、この理論は、その好感度が錯覚ではなく、本当に好感度が高い人に対して、どこまで当て嵌まるだろうか?
お笑い芸人に限らず、芸能界では、人気のある人にはアンチも多い。
アンチになる理由は様々あるだろうが、好きな芸能人の上位にランクされる人は、嫌いな芸能人のランキングにも顔を出すことはよくある。
これは、好きになってる人は錯覚させことができてるが、アンチは錯覚させることが出来なかった、と捉えられる。
そして、アンチには人気が錯覚によって支えられてるということが何となく見えてくるので、本来は無関心でもよいのだが、逆に嫌いという態度につながるのだ。
そこで、アンチが少なくて好感度が高い、お笑いコンビ"サンドイッチマン"を題材にして『錯覚』を考えてみたい。
まずは、Google Trendsで検索可能な2004年以降で動きを見ると、
二つの大きな山はなんだろうか?
時期は、2007年の12月と2011年の3月。
2007年12月23日、M-1グランプリ2007において、大会初、敗者復活枠からの優勝を果たす。これが、コンビとしての大きな転機となる。
2011年3月、宮城県気仙沼市の漁港にて、サンドのぼんやり〜ぬTVのロケの最中に、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生し被災したが、すぐにスタッフ・出演者が全員無事であることをブログで報告(後述)。
(後述)とあるように、サンドイッチマンは、東日本大震災の際の振る舞い方で、強(恐)面だけどおもしろい芸人という枠を超えて、心に響く優しさや思いやりを持っているという地位までを得た。
もともと芸風には定評があり、ファンや視聴者からの評価が高いだけでなく、芸人仲間からの評価も高いのがサンドイッチマンで、その評価の高さは、まねをすることができない芸風にあると言われている。
サンドイッチマンを高く評価する大物芸人には、ビートたけし、松本人志、関根勤、島田紳助などがいる。
また、お笑いコンビには珍しく、コンビ仲が良いことも、好感度につながっている。
ウィキペディアを見ると、この二人は実に下積みが長かったことだけでなく、何度か乗り越えてる壁があることがわかる。
一発屋芸人には、「早熟腐ること早し」を感じ、下積み芸人には「大器晩成」を感じるが、人生100年などと長生きが前提になると、人生は後半が充実してるほうが絶対楽しいはずだ。
昔、青春ドラマ全盛の頃、私は青春時代が終わったら残りは全部余生だと感じていたことがあるが、あの頃はバカだったとつくづく思う。
しかし、そんなバカな生き方も、気付けばいくらでもやり直しができると、最近は感じてるが、気付くことが肝心だ。
いろいろとサンドイッチマンを見てると、弱点や失点が少ないことがわかるが、こういう時は、不用意な一言が足を引っ張ったりすることが多いのだが、その理屈はサンドイッチマンには当てはまらないのだろうか?
健康ブームに一石を投じる? サンド伊達の「カロリーゼロ理論」に好反響
カロリーは真ん中に集まるからドーナツはカロリーゼロ!?
過剰なまでの健康ブームの浸透に辟易したユーザーにとって、そのアンチテーゼとして、“高カロリー商品”が話題に上っているのではないだろうか。
「カロリーゼロ理論」も同様に、サンドウィッチマン伊達の意図していない部分で「わかるわかる、ダイエットもしたいけれど…カツカレーつい食べすぎちゃうよね」といった視聴者の“食いしん坊ゴコロ”を刺激しているのだろう。
おふざけネタだが、新聞社も取り上げている。
健康ブームに一石を投じる? サンド伊達の「カロリーゼロ理論」に好反響#カロリーゼロ理論https://t.co/96mRJAptlQ
— 徳島新聞WEB (@tokushimapress) August 9, 2018
"言ってる内容が正しいなんて誰も思ってない"、今の時代はそういうことを発言すると、途端にバッシングを浴びる時代だが、サンドイッチマンはそうはならない、お笑い芸人だからではない、それどころか一理あるとさえ思わせてしまう。
良いものの良さを一所懸命アピールしてもなかなか伝わらないのが今という時代。
正しいことの正しさを一生懸命アピールしてもなかなか伝わらないのが今という時代。
「嘘から出た真(まこと)」という表現があるが、『真(まこと)』はどこから出るのだろうか?
良いものや正しいことは、もはやその良さや正しさを伝えているのは、ことばではないかもしれない。
サンドイッチマンは、良い人を演じるどころかむしろ、ふざけた人を演じ続けてるのに、好感度を高く維持できているのは、錯覚資産を積み上げたからなのだろうか?
お笑い出身であることを考えると、ネタに由来するものは無視できないだろう。
そして、第一印象としての外見であり、キャラクターが、好感度に影響してるのだろう。
サンドイッチマンに関する『錯覚』について考えれば考えるほど、無名時代の不遇な頃そのものが『錯覚』だったと感じられる。
それを象徴することばが、ウィキペディアに書いてある。
ライブでは常に爆笑をかっさらっていたものの、キー局でのテレビ出演がないまま年月は流れる。
この頃富澤は、自ら伊達をお笑いの世界に誘いながら一向に結果が出ないことに負い目を感じ、コンビ解散や自殺まで考えていた。
気が付けば30歳になっていた2人は、2005年を「勝負の年」と決め、アルバイトを減らして片っ端からライブに出演していく。
そんな中、ついにその実力がテレビ関係者の目にとまり、日本テレビ系『エンタの神様』への出演が決定する。
どうやら、『錯覚』には2種類ありそうだ。
過大評価される錯覚と、過小評価される錯覚だ。
過大評価される錯覚は、評価に値するものはなにもないのに、なぜかトントン拍子で評価を得ていく。
過小評価される錯覚は、評価に値する実績や実力があるのに、なぜか評価を得られない。
気になるのは、『錯覚』の有効期間とその効力だ。
日本に長年根付いていたムラ社会のありようが、『錯覚』の発生に一役買っていたとすれば、そういう意味での錯覚崩壊元年が今年になるのかもしれない。
スポーツ界では、顕著に『錯覚』の崩壊が起きているように見える。
「金にならない“たかがアマチュア”」ではない。アマチュアだからこそ「1勝」は大きいのだ。それを権力者の横暴で左右されたら、選手としてはたまったものではない。
勝ち負け以前に、出場できるかどうかが、一連の発覚した不祥事の根底にもある。ボクシングでは当然、東京五輪に代表選手として出場できるかどうかは連盟の意向で決まってしまうから、最高権力者に逆らえるはずもない。
これまでの、日本における人事評価に付きまとう"なぜ"は、『錯覚』が起こしたものかもしれないが、これからは、徐々に『過大評価された錯覚』が通用しなくなるかもしれない。
反対に、チャンスは、『過小評価されていた錯覚』に訪れるのかもしれない。
『真(まこと)』は、生き様や行動の積み重ねにしか、宿らなくなってるのかもしれない。