違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

再現性は、幻!

創造は、崇高な行為だと言われるが、実際には創造と模倣は紙一重だ。

 

正反対のようで、実は表裏一体だ。

 

だから、創造は模倣から始まる。

 

 

模倣には"ある"ことが明らかで、創造には"ある"とは言えないのが、"再現性"だ。

 

私が、"再現性"ということばを認識したのは、昔バイクを改造して乗ってる時に、トラブル手前の不調を体験した時だ。

 

明らかな不調を認識し、バイク屋に行ったが、バイク屋に行くとその不調が再現しないのだ。

 

症状が現れなければ、トラブルシューティングは不可能だ。

 

「不調が再現されたら持って来て」と言われた。

 

おそらく、医者と患者の間でも起きている会話だろう。

 

 

ここで上げた例は、どちらも悪い状態を改善させるために、悪い状態を再現させるというのが、再現性が意味するものになっている。

 

言ってみれば、これは昭和の"再現性"だ。

 

 

そして、平成以降の"再現性"は、多様性を見せるようになってきた。

 

 

 

 

 

 

 

自己啓発やビジネスや投資指南などの書籍やセミナーが人気なのは、お手軽に成功の再現性を求めているからだ。

 

それ自体は悪いことではなく、始まりは模倣からという動きだ。

 

 

これらの分野の当事者(著者や読者、セミナー主催者と受講者など)は、どちらも自己の利益のために、お手軽な再現性を求めて行動してるように見える。

 

 

「再現性」の記述「ほぼすべてに欠陥」 毎日新聞2016年1月12日

世界で発表された過去15年間の生物医学系の学術論文を抽出して調べたところ、同じ方法で実験すれば同じ結果が得られる「再現性」を確認するための手法が十分に書かれていないなど、ほぼすべてに欠陥があったとする分析結果を、米スタンフォード大などの研究チームがオンライン科学誌プロス・バイオロジーに発表した。

 

この記事は、生物医学分野の話だが、この分野ですらこの状態だということは、おそらく他の分野も同じか、もっとひどいと思って間違いないだろう。

 

「再現性の危機」はあるか?ー調査結果ー 2016/5/26

アンケート調査では科学者たちに、再現性の危機を招く要因についても質問した。回答者の60%以上が、「論文発表への重圧」と「選択的な報告」の2つの要因のいずれかが、常にまたはしばしば影響を及ぼしていると答えた。また、半数以上が、発表者が所属する研究室での不十分な再現、監督不行き届き、検出力の低さを指摘している。

 

上のメンバーが下のメンバーを指導する時間がほとんどないような研究室に入った大学院生は、将来、訓練や指導のモデルを持たないまま自分の研究室を持つことになるかもしれない。「そんな研究者が研究室を主宰するようになれば、事態はさらに悪化するでしょう」とKimble。

 

 

学術の世界でも、再現性の無さが話題になり始めたのが2016年だが、この流れは現在も改まっていなさそうだ。

 

粗悪学術誌論文投稿、日本5000本超 業績水増しか 毎日新聞2018/9/3

九州大と東京大、大阪大、新潟大からは各100本以上を確認した。専門家は「研究者が業績の水増しに使っている恐れがある」と懸念する。

 

九大はハゲタカジャーナルに論文を投稿しないよう所属研究者の指導に着手。東大は「現時点で対策は考えていないが、今後の動向を見たい」、阪大は「状況を十分に承知していないため、回答は控えたい」とコメントした。

 

現代は、多くの人や企業が再現性を求めて活動している。

 

 

人や企業が集まり、再現性が求められてるのは、『こうすれば儲かる』、『世の中はこちらに向かう』、『こうすれば客が増える』という分野だ。

 

再現性を指南する役回りがコンサルであり、広告代理店だ。

 

当事者の誰もが、再現性を実現するために時間も工夫もかけようとはしたがらないので、そのほとんどはただの模倣のままで終わり、決して創造の高みには至らない。

 

先端分野での試行錯誤に関して再現性が得られないのは、わかりやすいが、再現性はこういう分野だけではなく、体を使う分野でも求められている。

 

スポーツや特殊技能などの分野だ。

 

自分の体で実現した最高のプレーが、再現性のない一期一会ということすらある。

 

いつもと同じようにやっているのに、結果はその都度違うということはよくある。

 

 

 

高度なテクノロジーを担保するのは、確実な再現性だ。

 

しかし、テクノロジーの分野に当てはまることを、人間活動の分野のお手本にはもうできないかもしれない。

 

人間が活躍するメインの場は、再現性がない、一期一会になっていくのかもしれない。

 

再現性がないと考えると、無秩序みたいなものをイメージしそうだが、実はそうではなく、同じように見えるのに全く違うという世界観に近いと感じる。

 

 

 

求められるものならば求めたいのが『再現性』だが、要求が高度になるほど、欲望の度合いが高くなるほどに、遠のいていく幻のようなものかもしれない。