先日のエントリー、必要なデータとは?で紹介した本が図書館にあった。
スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』上下巻読了。合わせて1200ページくらい。字数も多くて情報量みっちりの大著。もうとにかくデータ量が膨大。プロが山ほど集めたデータをもとに、人類の暴力を分析していく。「世の中どんどん悪くなっていく」なんてのはやはり大嘘だった、という内容。
— 深見 真 (@fukamimakoto) August 12, 2015
手にとって少し読んでみたが、文章が難しいわけではないが、読みながら想像も膨らむので、すぐに読むスピードが遅くなる、読了には膨大な時間が掛かりそうな気がし、借りても読めないと判断した。
アマゾンのレビューを見ると、一気に読んだ方もいるようだが、普通の人にはそれは簡単ではないだろう。
読み終わるのに3ヶ月近くかかり、6割くらいしか理解出来なくて「その時間使って他のこと出来たんじゃね!」とも思うけど、3ヶ月もの間、合理的で冷たくて気難しい科学者の抑制の効いた声に耳を傾け続けた日々は、得難い経験だとも思うのでした。 #暴力の人類史 pic.twitter.com/YNI0GoQBq1
— 伊藤裕一郎/ナレーター (@ito_yu1ro) November 20, 2017
私は、適当につまみ読みをしただけだが、下巻の9章に"共感"という今風な見出しが立っていて、おもしろいことが書いてあったので紹介したい。
「共感(Empathy)」という言葉はせいぜい100歳だ。元祖はアメリカの心理学者エドワード・ティチェナーだとよく言われるが、彼がこの言葉を使ったのは1909年の講演で、オックスフォード英語辞典にはイギリスの作家ヴァーノン・リーによる1904年の用例が載せられている。どちらも由来はドイツ語のEinfuhulung(感情移入)で、もとは一種の美的鑑賞能力の表現として使われていた。
共感(Empathy)のもともとの意味で、最も機械的な意味は「投射」である。誰か別の人間や動物や物体の立場に自分を置いて、その状況に存在しているときの感覚を想像できる能力のことだ。
これに密接に関連するのが「視点取得」の技能、すなわち、別のものから見た世界はどのように見えているのかを思い描ける技能である。
今日の『共感』の大流行は、「Empathy」のさまざまな意味を一緒くたにしたことから始まっている。
共感には、暗黒面がある。
一つは、根本的な原則である公平性と衝突した時に、福祉を転覆させる可能性がある。
もう一つは、人々の利益をあまねく考えるための力とするためには、あまりにも偏狭なことである。
現実を見てみれば、広がってきたのは共感の輪よりも権利の輪である。自分たちから遠いもの、共通点がないものも全て含めて、他の生き物が傷つけられたり搾取されたりすることがないように、積極的に取り計らってやるようになったのだ。
究極の目標は、政治と規範が第二の天性となって、共感が不要なものになることを考えるべきだろう。愛と同じく、実際には決して「共感こそがすべて」ではない。
この本は、現代が、歴史上かつてないほど暴力が少ない時代になっているということを多様なデータを用いて説明していて全部で1200ページに及ぶのだが、私が読んだのはせいぜい60ページで、共感に関する部分だけで30ページ程度だ。
ありふれた言葉に感じていた"共感"だが、その奥深さと、表裏一体の暗黒面も知ることができた。
そして、なぜか、この話を思い出した。
中島岳志さんによる平川克美「21世紀の楕円幻想論」の書評。お礼をいう時点で、資本主義マインドなんだ。少なくとも贈与経済という在り方があることをもっと知りたい。
— カワルカエル (@changing_frog) March 25, 2018
助けてくれたインド人にお礼を言ったら憮然とされた理由 | 文春オンライン https://t.co/mIO7KpNeSr
フロイヘンがいくども礼を言うと、男は憮然としてこう言った。「この国では、われわれは人間である」「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない」。
文化的な背景が違うと、前提が違ってくる、そうすると『共感』が得られると思っている言葉や行動もすれ違い、『共感』できなくなることがあるということは知っておいて損はなさそうだ