違う見方

誰でもできるけど、自分にしかできないのが、判断するということ! 情報過多な現代は偏り(バイアス)も強いので思わぬ方向にずれていくこともある。そんなズレを修正したりブレーキをかけるために少し違う目線を持ってみたいという備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

商品としての沢田研二!

以下しばらく前置きが続く。

 

 

需要量が供給量を上回る時、つまり、買いたい人の数が売ってる商品の数より多い場合、売り手が有利になることを、売り手市場と呼び、その逆が買い手市場となる。

 

売り手と買い手は、その時々の状況に応じて駆け引きや工夫をこらすことになる。

 

この場合、「駆け引きはしません」ということも駆け引きの手段の一つとなる。

 

 

最近では、生産者(社)が消費者(エンドユーザー)と直接取引をするケースも増えているが、まだまだ間に販売(=仕入れ)者(社)が入る取引が多い。

 

この中間に位置する立場には様々な形態があるが全部ひっくるめて、流通(業)と言われる。

 

流通業は、市場の生産者と消費者の力関係に常に振り回されることになる。

 

そして誰しも、振り回されるくらいなら振り回したいと望むようになる。

 

 

市場を相手にすると、結果が大事になる。

 

やがて、大事なことは結果だけになっていく。

 

 

だから、どうせだったら結果に対して主導権を取りたいと考え行動するようになる。

 

 

 

 

 

これとは別に、商品やサービスに焦点を当てると、生産者目線と消費者目線という軸が見えてくる。

 

 

生産者は、二つのよくわからないものを追いかける。

 

自分が作りたいものと、お客が望むもの。

 

 

どちらも、分かるような分からないような、理想と現実の狭間で、妥協と闘いながら日々を過ごす。

 

妥協は、決して予定(予想)通りに順調に事が展開するわけではないことに起因する。

 

 

一方、消費者の多くは、商品を見るまでは、自分が何を欲しいかを理解していないと言われる。

 

商品には大きく二種類あると思っている。

 

使い途や要求基準(スペック)の想定イメージが描けるもので、私はこれらを『道具』と位置づける。

 

道具という表現が馴染まないファッションや飲食やエンタメに関することでも、予め求めてるものが想定できてるものはすべて道具に該当すると思っている。

 

 

もう一つは、感情や気持ちがどう動くかで、想定外が起きる『感動』を伴うものだ。

 

この場合の『感動』は、予定調和を超えるものと言う意味ではハプニングかもしれない。

 

ちなみに、フラッシュモブのような演出されたハプニングを狙ったサプライズは『道具』に該当する。

 

 

 

ちなみに「生産性が高い」とは、売り手市場の道具にしか当てはまらない概念だと思っている。

 

こう考えると、生産性が高いものは、『感動』は産まないだろう。

 

 

そして、最も大事なことは、これらのことは、ことばを介して表現され、伝えられるという点にある。

 

 

だから、意図する、しないに関わらず、"うそ"と"本当"と"見解の相違"の違いが発生する。

 

 

 

ここまでが前置き。

 

 

沢田研二(有名人なので以下すべて敬称略)のドタキャンを事例に考えると、

 

 

本当のことではっきりしてるのは、沢田研二がドタキャンしたということのみだ。

 

後のことは、

 

・本当のこと

 

・うそ(想像含む)

 

・見解の相違

 

 

のどれかに該当してるのだろう、あるいはこれらの複合かもしれない。

 

 

真偽はともかく、ここまで起きていることからできる解釈は主に二つ。

 

 

一つは、9000人の会場に7000人しか入ってなかったから、満員じゃなかったから、それが不満でドタキャンしたという話が伝えるのは、沢田研二という商品は買い手市場商品であることを意味し、本来下手に出なければいけない商品側なのだが、強気に出て売り手市場の振る舞いをしたために大騒ぎになったと言えそうだ。

 

 

これに対してもう一つが、私も反応したのが原発の反対署名活動を会場に拒否されたからという説だが、これは沢田研二という商品の生産者である沢田研二本人が、自分が作りたいものを作らせてもらえなかったという生産者目線での反発行為と捉えられそうだ。

 

 

この二つが多く取り上げられてるが、商品を取り巻く事情としては、それぞれ発生源が違っている。

 

では、沢田研二はそもそも売り手市場なのか買い手市場なのか?

 

あるいは、消費者目線でいうと沢田研二はどういう商品なのだろうか?

 

 

 

 

 

消費者目線で見ると沢田研二には、売り手市場の潜在能力を感じることはできるが、それだけではどうにもならないこともイベンター(流通業)の立場からするとあるようだ。

 

やはり、流通分野は市場に振り回されると感じる。

 

 

 

エンドユーザーである消費者は、商品を選んでいるのだろうか、それとも流通業の戦略や戦術に乗せられて踊ることを選んでいるのだろうか?

 

今回の沢田研二ドタキャン騒動は、商品が意志を持って行動できるから起きたわけで、一般の商品だったら起きないことが起きたわけで、一般商品だったら生産者に非があるのか、流通に非があるのかは明確になりやすいが、このドタキャンはそこが分かり辛い。

 

 

 

商品を取り巻く立場には三つがある。

 

・生産者

 

・流通業

 

・消費者

 

三者三様に狙いや目的がある。

 

 

今回起きたドタキャン騒動は、商品が人間だったからと言えそうだが、だとすれば今後多様な場に浸透するAIが、学習の仕方によっては似たような問題を起こすかもしれない。

 

ただの中間搾取のように扱われるのが流通だが、意外と果たしてる役割の大きさに驚く結果となった。

 

商品としての沢田研二を考えることは、ゴシップと言うよりもあまりにもビジネス論だった。