事件が現場で起きる、全てはそこから始まる。
その時の事件の当事者が発する情報やその現場に居合わせた人が発する情報には「百聞は一見に如かず」の力がある。
情報の“最初”は現場で生まれるが、それだけでは一次情報という扱いを受けないという考え方が根強い。
情報を得るうえで、私が最も心がけているのは、一次情報を得るということです。政治家や経営者、あるいは先端技術など各分野の専門家にしても、できる限り当事者に会う。私が得ている情報の7から8割は一次情報です。
— 田原総一郎非公式bot (@jap3x3eyes) October 29, 2018
一次情報とは、情報の最初の当事者や周辺の人々への取材というフィルターで漉し取られたものだと言う考え方が根強い。
一次情報に価値があるという考えは、それが真実だと思われてるからだが、取材というフィルターを通した時点で果たしてそれは真実と言えるだろうか?
インターネットやSNSなどの普及で、情報発信のハードルが下がると情報の価値や質に対する評価が多様化する。
この図は私がイメージする世間の情報の位置付けで、色の濃さが信頼度を示している。
しかし、一次情報ですら、真実や事実という観点で見ると、現場で起きたことを違う色で伝えていると思っている。
そんな一次情報を基に更に色付けし情報が拡散していくが、どれも現場で起きたことを基にしながらも違うものになっていく。
世間一般で、既存マスコミがどう色分けされてるかという図があったので紹介する。
一次情報ですら、良く言えば多様性があると言えるが、実は大きな偏りがあることが伺える。
多様なメディアの全てに目を通すことができれば、その中心にあるものが見えるかもしれないが、私を含めて多くの人にとって、メディアは十把一絡げにメディアになっていて、個々のメディアにあったとされる性格の違いなどもはや全く考慮してないだろう。
少し世間の声を拾ってみると、
✔︎ネットで見た話
— イシコ (@newsalaryman_21) October 29, 2018
✔︎他人から聞いた話(二次情報)
✔︎直接本人から聞いた話(一次情報)
✔︎自分で体験した話
下に行くほど、到達するには時間もお金も必要だけど、これを面倒臭がってたら、いつまでも価値を提供できない。朝から晩までツイッタランドに張り付いてても、価値ないからね。
もうジャーナリストが一次情報の発信を独占できる時代じゃないんだよ。
— 猫組長 (@nekokumicho) October 28, 2018
インターネットの世界って情報の流通によって
— あら (@kinzmarauri) October 29, 2018
収益が発生したりする世界ですが
その収益って最終的にどこに行くかって
わかりますか?
それはずばり「価値ある情報の一次発信者」のことです。
それが情報の支配者になるということなのかもしれない。
これは、個人の立場として。
— 関谷直也 (@luntlunt) October 29, 2018
現地の一次情報、情報源を確認せず、伝聞に基づく不確かな情報を拡散させるから「流言」が発生します。「流言は智者に止(とど)まる」といいます。自分で確認できていないなら、憶測に基づいて拡散させないことです。
時代変わったと思うのよね昔は戦場ジャーナリストに価値があった
— 太郎 (@nama2015) October 29, 2018
今はネットがあればだれでも情報発信できるただ写真撮りました
ただ戦場に行きましたじゃ価値のない時代
自然災害見れば分かるけどマスコミがSNSの写真や映像を後追いする時代、戦場の情報も一次情報は当事者が発信してる
というか、最初の情報が「みんなかいてる二次」だと、その情報ありきで一次見る事になるから大抵の場合は「みんなかいてる二次」に即した内容にしか見えなくなる気がしますね
— 跳魚@ロシア史 (@haneuo137) October 29, 2018
苦しんできた当事者ほど、多くの人に自身の経験を語る価値が大きい。
— 今一生@固定ツィ見たらRT (@conisshow) October 28, 2018
彼らは、専門家や研究者、報道記者より、はるかに優れた一次情報だ。
社会の何を解決してほしいのかを、彼らは誰よりも知っている。
彼らが自分の価値と権利に気づくとき、この社会は今よりはるかに生きやすい場所に変わる。
そうなんですよね。いくらインターネットが普及しても誰かが一次情報を発信しないと誰にも伝わらないので。しかも紛争に関する公正な報道には文章力、撮影技術、確かな情報ソースの確保とかプロの技術が必要なので誰でも出来るものではないということがあまり理解されていない気がします。
— 高多直晴 (@paopao2562) October 27, 2018
既存の情報発信の在り方を基準にすると、一次、二次、三次と分類しがちになるが、意見や考えを加味して発される情報は、全て一次情報になりつつある。
現場から発されたツイートに対して単純にリツイートするだけではそのリツイートは二次情報になるだろうが、コメント付きで発されたリツイートは新たな一次情報になるようになったのが現在だ。
付与されたコメントは二種類に分けられる。
思考の表現とウソに分けられる。
これは、最初の一次情報にも当てはまる。
情報には一定の割合でウソが含まれている。
ウソが嫌な人は、真実に拘るが、情報からウソを排除することはおそらく不可能で、真実は「絵に描いた餅」みたいなものだと思った方が良い。
だとすれば、情報の価値は、そこに込められた思考の記録を読み解く事に委ねられる。
うつ病人がやるTwitterは、思考訓練だったり、自分記録なんですよ。
— ほっしーメモ (@hossymemo) October 26, 2018
使い方は人それぞれなのだから、文句を言う資格は一切ない。
誰になんと言われようと、自分の「やりたい」という気持ちを大事にしましょ。
言葉の記録
— 文田聖二 (@fumitaseiji) September 14, 2016
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。マザー・テレサ
思考を加味して発されるすべての情報が一次情報になるという考え方の基本であり前提は、ひとりひとりがそれぞれに独立した個性や人格を備えていると言う考え方に宿る。
「もはや置き換えられないのは、『人格』しかないのではないか。『何が好きか』『何に情熱を燃やしているか』に価値が求められる時代が来ている」
— NewsPicks (@NewsPicks) October 29, 2018
脳科学者・茂木健一郎氏 @kenichiromogi が語る椅子を争うためではなく、幸せになるために、必要なグリットの力とは。https://t.co/GURBWAgOF2
情報は、真実や事実よりも、誰が言ったか、その人はどう捉えてるか、ということがより重要になるし、そうやって情報の取捨選択を行うことになるが、これこそが自己責任となる。