モラトリアムとは、本来は“猶予”を意味するが、日本では1970年代後半の大学生のライフスタイルから垣間見える行動を心理学的に捉える際の説明に用いられたことをキッカケに、最近で言うところの「自分探し」に近い意味で使われている。
昔は社会人になる直前を指すことばだったが、現在はもっと適用範囲が幅広くなっている。
私にとってはモラトリアムというのは、人生で悩みや試行錯誤が発生した場合、そこから抜け出すためにエネルギーを費やす時間を意味するものに思えてしょうがない。
人生100年「一生モラトリアム」のすすめ “大人になれない”のは悪いこと?
つまり、モラトリアム期間に求められるものが、「上から教えてもらう」から「自分たちで探して創る」に大きく変わってきたのです。
そして、一人前になったつもりで「自分たちで探して創る」を辞めてしまうと、すぐに時代に取り残されてしまう。つまり、開拓と創造をし続けるために、一生ずっと半人前のつもりで模索する必要があるのです。
この数日間、お笑い界や芸能界で話題になってる出来事がある。
賛否両論あるが、圧倒的に上沼恵美子サイドが優勢のように感じられる。
昨日21時、電話があり急遽原稿依頼がありました。「漫才を『審査』する難しさ」。色んなことを理解しました。寝ずに書きました。是非。
— ユウキロック (@yuukirock0416) December 5, 2018
上沼恵美子に噛みついた久保田らを「俺は批判できない…」と元M-1ファイナリスト | 日刊SPA! https://t.co/QaLeO03VEZ @weekly_SPAより
上沼恵美子さんは、2年前にこんなことを言われていた。
ホームの大阪で、生放送でないと出ず、番組では通例となっている手土産も無く、
終始常識人を装いながら言いたいことだけ言って帰る上沼は、不快なおばさんでしかなかった。
いくら話の運びが上手く機転が利いても、「西の女帝」がこの程度とはガッカリだ。
あれで彼女が求めたものは得られたのだろうか。全く分からない。
ことの是非はともかく、世間の事情に置き換えると上沼恵美子さんにものを申すとは、次のようなことかもしれない。
上沼恵美子さんへの暴言騒動を知って、いろいろネットで見てみたけど、コレって『大企業の重役が直々に依頼しに行くほどの人物で、しかもずっと目をかけて便宜を図り続けてくれたVIPに、ヒラが酔った勢いでボロカスにけなしたSNSを公開した』って考えると、かなり大事だと思う。
— とーせい (@OTTOHSAY) December 7, 2018
この話を聞いて思い出した話がある、20年くらい前の話だ。
吉本興業が関西ローカルから全国区になったのは東京進出がきっかけだったが、その立役者は木村政雄さん。
1997年には吉本興業の常務になり、この頃私は木村さんの講演を聞いたことがある。
世の中の移り変わりを、お笑い芸人のキャラクターを使いながら解説すると言う独特の話芸で斬新でありながらも説得力も持ち合わせていた。
その時の話で印象に残り、それから20年経過した現在でも、あの話は当たっていたなと言う話がある。
話に出ていたのは、二組のグループ。
ベテランとしての「オール阪神・巨人」と若手の「ダウンタウン」。
木村さんによると、オール阪神・巨人を芸にこだわるあまり芸を『道(どう)』として厳しく捉え過ぎ、礼儀作法に至るまで一切の手抜きを自分達だけでなく周りにいる人にも求めるようなスタイルを貫いていたらしい。
一方のダウンタウンは、漫才はやるが漫才へのこだわりは全く無く、ただ世の中に打って出る手段として漫才を使っただけで、自分達がやる気になれることであれば、何をやっても構わないと言うスタンスだったらしい、だから礼儀作法にも全くこだわらないし、周りに押し付けることも無い、と言っていた。
だから、若手や新人の芸人の多くはダウンタウンの周りに集まり、オール阪神・巨人は孤高の存在になっていると話していた。
これからの時代は、小さな狭い世界にこだわってその世界を極めるというスタンスよりも、常識を壊すくらいのことを考える位でちょうど良いと言い、講演に集まっていたのは経営者や管理職がほとんどだったが、「オール阪神・巨人ではなく、ダウンタウンを目指しなさい」と聴衆を煽っていたことを思い出す。
20年前でもお笑い界の競争は激化していたが、その後の20年で競争の激化はさらに進んだのは明らかだ。
木村さんがダウンタウンの時代になると言った点は当たったが、講演を聞いた時の印象ではオール阪神・巨人はいずれ消えるかなと思っていたが、今もテレビCMに出るなど健在だ。
その後木村さんはどうなったかと言うと2002年に吉本興業を離れている。
形式的には円満だったかもしれないが、実際にはシコリがあったようで、現在の吉本興業内では、いなかったことにされてるような扱いを受けてるようだ。
講演を聞いた時の木村政雄さんはすごく頭のキレる人だという印象だった、日本のお笑い界の次世代のドンになる方だろうと思っていたのに。
80年の社史には何度も出てくるが、新しい105年目の社史にはまったく出てこない吉本東京進出の功労者・木村政雄。まだ71歳。現経営陣にとっては唯一の目の上のたんこぶといったところか。https://t.co/mIGG8oEpX0 https://t.co/XiPRmiKXO7
— kaoruww (@kaoruww) January 3, 2018
言いたいことを言いたい放題に言ってるように見える人には二種類いると思えてくる。
何も忖度せずに思うがままに発言する人と、誰か別の真の権力者に言わされてる(または忖度して発言する)代弁者の二種類だ。
モラトリアムについて考えていたら、どうしても今回のM1グランプリの審査員批判と結びつけたくなった。
私が考えるモラトリアムとは、オリジナルの自分を探すための「自分探し」だと思えるが、お笑い界に限らず、競争が激しい分野ではオリジナルにこだわるよりも競争が少ないニッチを求める傾向が強くなり、純粋なオリジナルから遠ざかるのではないかと感じられる。
それは、納得を得るための行動では無く、評価を得るための行動になる。
そして、評価が付いてくればその先に納得が得られるであろうという考え方に見える。
良い悪いや正しい間違ってるということが言いたいのではなく、先に評価を得ようという行動は『苦行』に近いのかもしれないということが言いたいこと。
審査員批判は、だから起きたのかもしれないと思える。
こうやって考えると、試行錯誤や努力にも「自分らしさ」が重要かもしれないと思えてくる。
現代は、ひと昔前に常識を壊して新しい流れを作ったはずの人々が、自分達が新しく作った常識を壊されまいと必死に踏ん張っているとも言える。
そんな常識を壊したければ、方法は何でも構わないが、圧倒的に支持されなければ勝つことができない。
審査員批判をしてるようでは、まだまだモラトリアムは続くだろう。