違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

憑依とゴーストライター!

これがキッカケで考えた話。

 

 

憑依型と評されるその演技だが、本人にはその自覚が無いらしく、

 

「監督とかお仕事する方にいろいろな作品を見てくださったり『あの作品がすきでした』と言われるとめちゃめちゃ困ります。過去の作品はその時の自分にしかできない演技なのでそれ以上のことを求められると、とてもプレッシャーです(笑)そんなそんな…って感じですごく怖い。(憑依型と)よくおっしゃっていただけるのですが、普通に覚えてしゃべってるだけだから…大変なんです」。

 

と、リンク先の記事では答えている。

 

『憑依』ということばは、一般的には「霊が乗り移る」という意味でオカルト的で気持ち悪いと思われることばだが、実はこれからの時代のキーワードになるのではと感じてる。

 

上記のように、役者の演技が憑依ということばで表現される場合は、与えられた役になりきっているということを意味し、そのなりきりっぷりが予想を超えていると思われるからそう表現されるのだ。

 

『憑依』という響きに好感を感じないのは、憑依されるとそれは自分ではないと感じるからかもしれない。

 

それは、二重人格や多重人格と印象が似てるからかも知れない。

 

憑依されたり二重人格や多重人格が出現することは、「わたし(ぼく)ではない」という思いがあるからだろうが、「わたしはわたし」という感覚は、実は決して当たり前のものではないので哲学の世界では大きなテーマになっている。

 

 

「なぜ私は私なのか」(なぜわたしはわたしなのか、英:Why am I me ?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。

世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜは他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか

 

 

 

世間で少々誤解されてるものにゴーストライターという存在がある。

 

しかし、あるべくして存在するゴーストライターには、なりきるという意味では役者に通じる世界観がある。

 

 

「ゴーストライター」のホントのお仕事

ビジネス書・実用書における「ゴーストライター」も、こうした「説明図の描き手」や「学校の先生」と、立場としては似ている。「ノウハウをつくり、考え方を生み出すこと」と「それを伝えること」は、根本的には別の役割・能力であり、ライターは「伝えること」のプロフェッショナルとして、著者の補助を行っていると考えていいのではないか。

 

小学館の編集者であった島本脩二さん(現在は退職)が矢沢永吉に本を書かせたいと思ったのが1976年。

 

矢沢永吉に本を書かせたいが、矢沢永吉自身が本を書けるとは思ってはいなかった、書けるのは矢沢永吉になりきれる人物しかいないのだ、と考えていた。

 

島本さんの人脈に一人だけ可能性がある人物がいた。

 

当時無名の糸井重里だった。

 

そして、島本さんの誘いを糸井重里が快諾した。

 

その後、糸井重里には矢沢永吉が憑依し、書き上げたのが「成りあがり」。

 

この話は、神山典士さんの「ゴーストライター論」に書いてある話。

 

 

 

ゴーストライターが成立するのは、著者になりきれることに限定される。

 

つまり、分野としてはノンフィクションで、事実や体験を語る場合のみだ。

 

これに対し、『憑依』はもう少し範囲が広くなり、想像や思い込みも許容されるだろうが、共通点は「なりきる」だ。

 

あらゆる分野で、「ブラック」や「ハラスメント」が出現するが、これらは被害者目線で語られることが多く、加害者目線ではあまり語られない。

 

加害者だって、「ブラック」や「ハラスメント」は本当は嫌だとしたら、なぜできるのかを考えると、「憑依」が答えとして相応しい気がしてくる。

 

役者が役になりきるように、自分の役に相応しい脚本を頭の中で作り上げ、その役に自分自身を憑依させることで乗り切っているのかも知れない。

 

自分の理想を描いた脚本を作り、その役に憑依するという生き方は、夢を実現する人達が当たり前のようにやっていることかもしれない。

 

それに対し、役になりきれない人は「自分は自分だから」と思いがちだ。

 

その場合の心理的な障害は「ウソはいつかはバレる」かもしれないが、それは作った脚本の出来が悪いだけかもしれない。

 

自分がなりたい役の脚本を緻密に作り上げ、その役に憑依すると言うのはおもしろいかもしれない!