卓球の全日本選手権をテレビで見ている。
男子準決勝で張本が負けるなど番狂わせが起こるとなぜかわたしはワクワクする。
卓球を見ながら思ったことを書いてみたい。
現代は、全ての活動が投資化している。
遊びや趣味ですら、自分のためになるようにと考える(別にビジネスになる必要はないが)。
だから、どこか深層心理の部分では費用対効果を求める気持ちが拭えなくなる。
投資に必要な判断要素
- 買い銘柄(何をするか)の選定
- 投資額の決定
- 売りのタイミング(成果の確認)
- 上記3つを意識した複数のポートフォリオを組む(無い場合もある)
後は、この無限ループだ。
株に例えて投資行動を表したが、第三者目線では勝ち負けが問われるゲームだから、個人で行う場合は全て自己責任となる。
この広い意味での投資家の心理は、プロデューサーの心理と共通する要素が多い。
分業におけるプロデューサーは、別に投資家を必要とするが、個人の行動だと一人で両方の役割をこなす事になる。
プロデューサーとは、計画にゴーサインを出し、投資家からの許可を得て、監督を始めとしたスタッフを集めるものだと定義する人もいます。僕にとって、プロデューサーとは映画と運命を共にする人のことです。作品の1コマ1コマと共に喜びや悲しみを分かち合える人ですね。
— 【宮崎駿の名言】 (@_Hayao_Meigen_) January 13, 2019
アニメ制作のための資金調達という面に焦点をあてた、プロデューサーへのインタビューです。シビアなビジネス感覚と、監督の熱意を支えたいという気持ちの対比が非常に面白くて、読み応えがありました。
— 桔梗屋 (@r_kikyoya) December 2, 2016
映画「この世界の片隅に」に勝算はあった? https://t.co/mM4dX5rxsd
リンク先の記事には、
真木:日本の映像物は、テレビ、映画、アニメ、実写を問わず、たいていは製作委員会という、民法上の任意組合によって資金が調達されているのはご存じですよね。参加する企業各社は、出資者、投資家であると同時に、メディアビジネスのプレーヤーでもある。例えば、ビデオメーカーが投資して、完成した映画のビデオの窓口(販売やレンタルの権利)を取る。テレビ局が投資するなら、自局で広告宣伝をして、放映もできる。
Y:言い換えると、映画単体でのリクープ(投資の回収)ではなく、関連した商品を自社で扱う権利による利益も含めて、ビジネスとしての採算を考えるわけですね。
真木:その通りです。そして、製作委員会方式には功罪どちらもありますが、「窓口のビジネスが優先される」のが特徴というところは現在では、誰もが認めざるを得ないと思います。
この記事に書いてあることは、ポートフォリオの話になるだろう。
ポートフォリオを組むのは、利益の最大化とリスクの分散を一石二鳥にするためだ。
「読んでから見るか 見てから読むか」1977年の角川映画のコピーですが、このコピーが用いられた映画は?
— Fg@しばらく低浮上 (@908Fg) November 29, 2018
相乗効果が見込めるならば、切り離して考える必要がないものを、切り離して独立して捉え過ぎているのが現代人の悪い癖かもしれない。
目的を見失わなければ、スタートはどこからでも構わないのだ。
日本では、研究は大学と企業のコラボで成立していたがバブル崩壊以降、企業が研究から離れ始め、研究成果を別途購入するようになった、同様な事は「企画やアイデア」にも当てはまる、つまり頭脳に相当する事は仕入れるものと化したのだ。
日本だけではなく、世界的なM&Aのブームは研究成果は仕入れても構わない、むしろそちらの方がコストが安く上がり生産性が高く効率的だという考え方を示している。
大事なことは、研究成果を評価する仕組みがあるかどうかだ。
リサーチ・ユニバーシティーになるためには基礎研究を活動の柱とし、大学院が充実していることが必要ですが、それと同時に「外部収入(external income)」が占める割合が大きいという特徴があります。
だからリサーチ・ユニバーシティーではプログラム・ディレクターと呼ばれる役職の人が一番威張っています。プログラム・ディレクターはたとえば「超伝導」の研究なら、その研究プログラムの総責任者を指します。たんなるプロフェッサー(=博士)ではなく、外部から研究資金を引っ張ってくるファンドレイザー、つまり今風に言えばクラウド・ファンディングの発起人みたいな役回りです。そういう言い方でピンと来ないなら、営業本部長みたいな役目だと思えば良いでしょう。
プログラム・ディレクターは「なぜこれから我々がやろうとするこの研究に、あなたはスポンサーとしておカネを出すべきか?」ということを先ずレポートにします。
個人だろうと企業だろうと、基礎研究に投資できるマインドがあるか無いかが問われる。
基礎研究が嫌われるのは、実を結ぶのが「いつ」かが分からないからだ、場合によってはそれ以前に「それが何になるのか?」に価値を見出せないからだ。
ただ金を払うだけってのは粋なのよ。学問を追求する学者と一部の向いている学生だけが研究すればいいの。それのスポンサー。それで日本の大学は上手く行ってたんや。それなのに学生は勉強しないとダメだ、とか言うからおかしなことになる。馬鹿な学生の面倒見てたら学者が研究する時間なくなるよ。
— Kazuki Fujisawa (@kazu_fujisawa) January 19, 2019
基礎研究っていうとご大層なものに思えてくるが、わかりやすく言うと「何のために役に立つのか分からない事全般」だ。
生産性とか効率などと考え始めて、短期間に実用化が見込めるものなどは刈り取られ尽くされてしまっている。
何のためかは、ありふれた言い方をすれば、未来や夢のためとなるのだろう。
その定義が曖昧なものに向かっていくのだろう、そこしか残らないだろうから。
これからは、「何のためかが分からない事」の時代になって行く!