いつの頃からか、怒りの根底に許容範囲の逸脱が関わってるなと感じる出来事が増えている。
「正義と悪」や「正しいと間違ってる」のように、白と黒を語っているつもりだったことが、グレーのグラデーションを白だ黒だと言い合うようになっていると気付く出来事が増えている。
白も黒も両極端なグレーなのだ。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
白を語っているとグレーを黒だと感じ、黒を語っているとグレーを白に感じるというのは、感覚には許容範囲という幅があり、この幅が人によって違うからだ。
何事も、「一定の範囲」が許容範囲として共有され、その「一定の範囲」が必ずしも明文化されるわけではないが常識に近い暗黙のルール的に機能している。
匂い(臭い)に関することなどは、その代表格だろう。
助けてください。もう我慢の限界です。給食エプロンにレノアを使うの止めてください。衣類、頭髪にまで匂いが移り親子で吐きそうです。子供が給食の味が全部この味がすると。これは明らかに香害です。どれ程他人に迷惑をかけているか?言えなくて辛い思いをしているか?考えてみたことありますか?
— もぐりもぐぞう (@mogkichi) January 22, 2019
マナーを巡る問題は、常に許容範囲が問われるが、多くの場合良識という各々のモラルに委ねられることが多いが、文言上は一致していても実生活の場では大きな不一致が生じることは珍しくない。。
そして、この不一致は度が過ぎると規制が介入せざるを得なくなる、それは楽しいはずの場でも起こる。
私設応援団お断りについて eikichiyazawa.com/yazawaclub/info
矢沢永吉のコンサートでは、かねてより、周囲の人に威圧感を与えるような私設応援団の活動、旗振り、特攻服などの威圧行為の禁止、周囲に迷惑となる永ちゃんコールの強要・煽りの禁止、飲酒入場の禁止といったルールの強化を行ってきました。こういった規制を設けたのは、私設応援団を名乗る一部の集団による威圧や強要、一部のファンの飲酒による周囲への迷惑行為に対するクレームが後を絶たず「コンサートに行きたいけど怖くて行けない」という声が多く寄せられる以上、必要な決断でした。
「度が過ぎた」話はよく聞くが、次の話は「及ばなかった」話だ。
◆錦織圭 選手はなぜ“不人気”か◆
— K2EVEREST (@k2everest1101) January 22, 2019
海外メディアから露骨に敬遠されるようになった。https://t.co/OvxAGK1fJi
理由は↓(笑) https://t.co/alOTunMmtF
「彼によろしくね、本田さん!」 pic.twitter.com/0e5gHLZzs9
リンク先の記事には、
「ケイのテニスはものすごく面白い。さまざまなショットを繰り出して我々を飽きさせないが、いかんせん話がつまらないからね」と、英国人のベテラン記者がこう続ける。
協会の広報が『試合の質問に限ります』と遮ったことには驚きました。通路で顔馴染みの選手と話しているだけなのに、やめて欲しいと怒られた記者もいるそうです。なのに日本の新聞記者は協会に抗議するどころか、ワンパターンで当たり障りのない質問しかしない。錦織の例で言えば、デビュー当時から本人や家族のご機嫌取りのような記者が多いと聞きました。
許容範囲は、命令されて出来上がるものというよりは、空気が作るような静かな流れで出来上がるものが多いが、錦織圭のような「及ばない」ケースでは過保護や甘やかしが見えてくる、そして度が過ぎて逸脱する場合は、権力や暴力が顔を覗かせる。
昨年のカルロスゴーンさんの逮捕劇。
マジですか。「捜査には日産社員が協力したとみられ、見返りに刑事処分を軽くする司法取引制度が適用された」
— たにやん (@t_taniyan) November 19, 2018
(時時刻刻)司法取引、カリスマ摘発 企業トップ、初の適用 日産社員の処分軽減へ ゴーン会長逮捕:朝日新聞デジタル https://t.co/NnsBAO80lF
当初は、横暴なゴーンさんを日産の経営陣や社員が懲らしめる動きだったが、
「日産の救世主」だったゴーン氏を、西川社長らと結託して逮捕・起訴し、暴走捜査の末、「人質司法」の身柄拘束を続ける東京地検特捜部。一方、「不祥事からの名誉回復」という邪な動機で「国循事件」の捜査に着手した大阪地検特捜部、医療情報システムの世界に多大な貢献をした桑田氏を逮捕・起訴。
— 郷原信郎 (@nobuogohara) January 23, 2019
いまやゴーンさんの立場は横暴を振るわれる側になっている。
この問題は現在様々なところに飛び火していて日本とフランスの問題になり、2020年の東京オリンピックまで関係してきている、グレーを白か黒かにはっきりさせるためのはずだったが、グレーなものをドロドロに煮詰めてなんだか訳のわからないものにしてしまったようにも感じられる。
こんな事件も起きている。
東洋大学、竹中平蔵氏の言動を批判した学生を2時間半にわたって詰問https://t.co/4XX7XwIIyR
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) January 22, 2019
この学生が配ったビラ(添付)を読むと、竹中氏への誹謗中傷に当たる箇所はない。むしろ、名前を名乗って、自分の大学の教員の言説を堂々と批判し、議論を促す勇気は尊い。教授会の見識こそ問われる。 pic.twitter.com/TKNrolRyhq
東洋大学で、同大教授の竹中平蔵氏を批判するビラを配った学生が咎められ、退学を示唆されたとされる問題。日刊スポーツ紙が大きく伝えている。2時間半に渡る事情聴取の中で、職員から「大学のイメージを下げているんだぞ!」と大声で言われた、と学生。イメージを下げているのはどちらか。 pic.twitter.com/1WLrBbhoyw
— Shoko Egawa (@amneris84) January 25, 2019
黒いものを白だということも、その逆も、結構無理が生じるが、グレーなものを黒だ白だと論じるのは簡単だし、一見無理がないように見えてしまうのだ。
最近そういう事ばかりが起きているような気がする。
その究極がこれかもしれない。
統計不正が国を滅ぼしたケースもある。旧ソ連です。統計の「司令塔」、政府の統計委員会の初代委員長を務めた竹内啓東大名誉教授に「なぜ統計不正が国家運営で致命的なのか」を聞きました。https://t.co/7xb1fxJASWhttps://t.co/7xb1fxJASW
— 毎日新聞 (@mainichi) January 24, 2019
これだけの悪事を「組織的には隠蔽していません、担当者が踏襲したんです」という超強引な言い訳で乗り切ろうとしている。そもそも、「担当部署の課長級職員らが間違ったやり方だと知りながら漫然と前例を踏襲」って、「組織的隠蔽」ではないか、と思うのだけれど。 https://t.co/tu6VeX3lcA
— 武田砂鉄 (@takedasatetsu) January 22, 2019
白か黒かをはっきりさせるということは一見潔いのだが、実はグレーを許容しないということで嘘やごまかしと紙一重の行為で、ごく普通の日常生活にもたくさん起きるできごとだ。
何ごとも白黒つけないと気が済まないタイプの人が、“グレー”を許せるようになるには? https://t.co/EpiHmhjrxB pic.twitter.com/lN8U1TeDa4
— VOGUE JAPAN (@voguejp) May 6, 2018
リンク先には次のような回答がある。
このタイプの人はなんでも白と黒をはっきりさせたい傾向がものすごく強い。人間関係においても「敵か味方か」で人を判断するので、好きな人はすごく大切にするけど、一度嫌いになったら二度と会わないなど、極端な判断をして派閥やグループをつくりがちです。
でも、相談者本人も気づいているように、それじゃあ本人も周囲も苦しいんですよ。なので、この人はまず、白黒つけようとせず、グレーを許す努力をしてみる。自分にとって「100点じゃないけどOK」というのはどこなのか、及第点を見つける努力をしてみてください。
こうやって見ていくと、グレーな存在を必要とするのは弱い立場や虐げられてる立場に多そうで、白黒を付けたがるのは権力を持ってる側であり、権力に取り入ろうとする立場だと見えてくる。
グレーゾーンのアピールが増えているのが現代の特徴だとすると、その理由の一端に、権力の移動が起きていると言えるかもしれない、と気付く。
権力者の権力が少しずつ弱者の側に分散し移動し始めているのかもしれない。
個々の人間に運命があるように、その集合体である人間全体(=人類)にも運命があってもおかしくない。
そういう目で見ると、世間で起きる出来事は皆運命の赤い糸で繋がっているかもしれない。