同じ文章でも、通訳と翻訳では表現が異なり、結果として伝わり方にも違いが出ることがある。
語学学習に映画を使ったことがある人は、字幕が全く参考にならないと感じることがあるはずだ。
そんなことしゃべってないことが、次から次に字幕で流れているということに気付いた人はたくさんいるはずだ。
しかし、映画の雰囲気にはピッタリ合っていたりする。
同じ文をテストで「訳せよ」と問われて答えたら、とても点数がもらえないであろう訳し方が、よりその場にふさわしい表現だと言うことはあり得るのだ。
むしろ実際にはその言ってないことばで表現されてることで、理解が進んだり、気分が盛り上がったりするということがある。
しかし中には、表現の巧拙以前に、元の意味を間違って捉えてることすらある場合もある。
https://t.co/p5TgZMAekh バズフィードがいちばん正確に訳している。時事通信、朝日新聞はクソだな(笑)
— 広瀬隆雄 (@hirosetakao) January 27, 2019
これらは、異なる言語の間で起きると、そんなこともあるだろうと良くも悪くも納得しやすいが、実は日本語のみの世界でも似たようなことは多いのだ。
出版や著作の世界では、本を出す側には3つの立場が存在していて、役割分担と協力の上に本が成立する。
3つのうちの2つから先に紹介すると、「編集者」と「著者」だ。
編集者は、この著者にこんなテーマで書かせたらきっと売れるであろうという企画を作り出版社内で稟議を上げる、稟議が降りるとテーマに関して著者と打ち合わせ執筆が始まる。
この流れとは逆に、著者の側から、こんなテーマで書きたいという企画が編集者に持ち込まれることもある(新人の場合はこのパターンのみだろう)。
小説などをイメージするとこの2つの立場だけで充分に機能しそうだが、これがビジネス書や専門書や自伝などの嘘や作り物ではないことがテーマになる場合は、テーマに相応しい著者が選ばれるが、必ずしも自分で文が書けるとは限らないのだ、むしろ書ける方が少ないと言えるのだ。
そして、名が売れてる有名人が企画を持ち込んでくることもあるが、多くの場合文を自分で書けるとは思っていない。
このような場合に、編集者に時間的な余裕があれば編集者が文を書くが、時間が無ければ別の人物が文を書くことになる。
それが、3つ目の立場である「ゴーストライター」だ。
ゴーストライターの出番は、クレジット上の著者のネームバリューだけで本が売れるような有名人(著名人、芸能人など)に限るか、または出版社が了承する位の部数を著者が買い取ることを条件に成立する。
こういう話が、実例を交えて詳しく書いてあるのが「ゴーストライター論」で、ゴーストライターが何を考え、何を望んでいるかということにも触れている。
私の興味は、編集者の役割にある。
きっかけは、最近売れてる本の編集者が「カリスマ編集者」などと呼ばれ、自ら露出を求めるようになったことにある。
SNSで「いまキテる人」はたやすく発見出来るようになり、その注目の度合いを思い切り増幅される。一部のメディアや編集者やキャスティング、人事権を持つ人らは、自分が発見したわけでもない「注目のニューカマー」に群がりアゲまくることで話題消費を加速する。あまりにラクしてないかと時々思う。
— 佐々木敦 (@sasakiatsushi) January 28, 2019
編集者の役割は「ここにニーズがあるので、ここに向かって走ってください」と明確な指示を出すことだと思う。それができない人に当たると書き手としてはつらい。
— 丘村奈央子 (@okmr09) January 27, 2019
電子書籍のように一人で完結できるメディアでも、そういう自分以外の視点で方向を判断してくれる人が並走したほうが良い出力ができそう。
このツイートを読むと、青山学院大駅伝部の原監督が思い出される。
世間ではきちんと理解されてないが編集者とは、指導者なのだとわかる。
だから、「上手にリードするという能力」が要求される。
それは、「ことばの使い方の能力」とイコールだ。
青山ブックセンターでこんなコーナーができてた。ビジネス本の編集者は、もうDJ的な役割になってきてる。 pic.twitter.com/KEkNIpr5g9
— 佐渡島 庸平(コルク代表) (@sadycork) October 12, 2018
ことばが上手に使われるとは、教え導くというよりも、試行錯誤のヒントの提示なのかもしれない。
相手が具体的に存在するならば、その相手の立場を理解し感情移入した上でのヒントの提示と、最初から想定している正解を押し付ける指導とでは伝わり方が違うのは当然だろう。
書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編
「書くうえでやめてほしい2つのこと」を伝えてあるのですが、ひとつは「書きたいものを書く」こと。もうひとつは「みんなが読みたいであろうものを書く」ことです。
では、どうするか。なによりも「自分が読みたいものを書いてほしい」と。
今後は「ブリコラージュできる人の活かし方」が大きなテーマになるはずです。加えて言うなら、そういった人がスキルを向上させると、センスが壊れてしまうという逆相関の関係もあるのではと考えています。
あくまで僕の見解なんですが、センスって「好き嫌いにおける一貫性のある文脈」だと思っているんですね。今までの世界はモノの有無が重要だったので、モノが作れるのか否か、あるいは作業ができるのか否かにおいては、早い段階でスキルを身につけて好き嫌いを克服させるというイニシエーションが発生していた。
ここでおそらく、みんなに備わっていたはずのセンスが破壊されてしまった。
だから、現在は「好き嫌いを克服できなかった人」こそがセンスを維持できていて、ブリコラージュもできていると思うんです。
※ブリコラージュ=手近なものをなんでも利用すること
「好き嫌いを克服した人」とは、いわゆる教科書的な大人だ。
今風に言うならば、「好きで社畜をやっている人」と言っても良いだろう。
翻って、「好き嫌いを克服できなかった人」とは、元々持っていた気持ちやこだわりを忘れてないと言えそうだ。
しかし、「好き嫌いを克服する」なんてそう簡単にできることではない、社畜を喜んでやっているように見える人だって本当は嫌かもしれない、だとすれば、やらざるを得ない事情が社会の側にあるはずだ。
誰もが嫌なシステムがなぜ続くのか?
このなかなか動かない社会システムと「ことば使い」の移り変わりに共通点が感じられる。
はるかぜちゃんの「ぼく」は日本語の進化? 専門家解説がかなり深い
冒頭で春名さんが、「違和感をもつお客さんのために」と、なぜ「ぼく」を使うのか、その理由を説明しました。
春名「『ぼく』という一人称は、小学生のころからずっと使っています。女性は一人称が『わたし』しかないですよね。一方で男性は『おれ』『ぼく』『わたし』を使い分けます」
たしかに男性は、どの一人称を使っても違和感なく受け止められます。
春名「男性が『わたし』と言う時は、すごくあらたまっていることが多いですよね。『女性はあらたまった言葉しか使えないのか』と思った時に、『ぼく』という一人称は、目上の方にも同年代にも失礼なく使える言葉で、ぼくにはちょうど良かったんです。それから気に入って使っています」
平田「僕は大阪大学で医療コミュニケーションを教えています。いま、検査入院するおじさんたちから『女性の看護師さんに子ども扱いされた』というクレームがよくくるんです。でもこれ、仕方がないんですよ。女性が男性に何かを命じたり指示したりする時の日本語って、まだ確定していないんです」
平田「日本語の二千数百年の歴史の中で、女性が男性になにかを命令したり指示したりすることって、お母さんが子どもに指示する以外なかった。だから入院したおじさんたちは『子ども扱いされた』と怒るんです」
平田「女性が男性になにかを命令したり指示したりすることって、お母さんが子どもに指示する以外なかったのに、雇用機会均等法ができて、社会は変わった。言葉の変化は、だいたい社会の変化から50年くらい遅れると言われています」
社会が変わり、言葉もそれに対応して形を変えてゆく。そのタイムラグが50年。
50年かかって「ズレた変化が一致」した過去の事例として上げられているのが、
平田「たとえば、明治維新が1868年に起きて、四民平等とか身分を超えた恋愛とか、努力すれば出世できる世の中にはなったんだけど、ひとつの言葉でラブレターも書けて政治も書けて、ケンカもできるようになった『言文一致』は、だいたい1910年前後です」
平田「夏目漱石が1907年に朝日新聞社に入社し、新聞小説を連載しました。当時の新聞小説は、お父さんが子どもに音読して聞かせるような、音としても分かるものじゃないといけなかった。そして最終的に言文一致が完成したと言われています。だから、社会の変化と言葉の変化には、だいたい50年くらいかかるんです」
そして、現在進行中のやっと動き出した「ズレの修正の動き」とは、
平田「いま小学生の先生は、子どもを全員『さん』と呼ぶんです。『君』『ちゃん』と男女で分けずに。でも最近気付いたんですけど、お父さんやお母さんのことは、『○○ちゃんのお父さん』『○○君のお母さん』と呼ぶんです。ほんと、日本語の混乱期です」
春名「はい。ぼくのクラスに自閉症の『だいちゃん』という男の子がいて。ぼくが『ちゃん付け』に違和感があったという話を知人にしたんです。その知人も昔、同じことがあったらしくて」
平田「そうそう。障害者にだけ『ちゃん付け』というのはおかしい。クラスの中で背が小さい子にだけ『ちゃん付け』するようなものですからね」
自分のことをどう呼ぶのか。
相手のことをどう呼ぶのか。
毎日何げなく使う言葉たちですが、思っているよりも、大きな問題が潜んでいました。
今日取り上げた話は全て、ことばの使い方に関する違和感や変化に関する話だったが、ひとつひとつを別々に取り上げるとただの流行り廃りという一過性のものにしか感じないが、共通点があることに気付くと、50年かかってやっと「ズレを修正」に向けて動き出した変化があることに気付く。
感度の良い人だけがこの変化に気付いてる。
時流に乗ってるけど、この変化に気付いてない人はまだまだ大勢いるはずだ。
起こることは避けられないこと。
Чемубыть, тогонеминовать.起こるべきことは起こる。必然的にそうなるようなことは、どうやっても回避不可能。