「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
似たことに、
「目的が先か、手段が先か?」
がある。
今日久々に、書きたいことが何も無い状態になってしまった。
日頃から、複数のネタをストックするようにしていて、ネタの準備はあるのだが、どれも「なんか違うな〜」という感じで気持ちが乗らないので、そんな自分の気持ちをネタにしてみた。
「良いものを作ろう」あるいは「完成度の高いものを作ろう」という気持ちによく似てるなと思うものに、「自分が納得できるもの」がある。
今日のわたしは「自分が納得できる(その気になる)ようなテーマ」がちょっと見つからないという状態なのだが、こうやって書き始めてるのは、最近は毎日何かしらブログを書くと言うことを自分に課してるからだが、そう考えると、この締め切りにも似た追い立てられる気持ちは内心悪くないと感じている。
不思議なことに、仕事で同じ目にあった場合は不快感しかないのだが、違いはなんだろうか?
答えは非常に簡単だ。
ブログは、わたし自身でもあるので、動機の全てがわたしの内側から出てくるからだ。
翻って、仕事はと言うと自分のためでもあるが、自分以外の誰かのためでもある。
その誰かが「お客」ならば、利害を一致させられれば頑張ることができるが、その誰かが「会社や上司」ならば気持ちが萎える。
仕事で何かを課される時、多くは自分以外に理由があって課される。
例えば、月末だからと言う理由で商談中の案件の契約の前倒しを求められたりする場合、相手の事情を考慮するからこそ月内の契約を先延ばしにしてることがあるにも関わらず。
このような場合は、その契約が歩合で自分の収入増につながる場合でもやりたくないし、やらざるを得ない場合は不快感がある。
同じことは子供に何かをやらせようとする場合によく分かる。
「〇〇しなさい」
「今しようと思ったのに、もうしたくない」
この定番のやり取りは、何十年繰り返されてるだろうか?
おそらく、昭和以降の文化だと思われる。
高度成長からバブル、そしてバブル崩壊後の30年、多くの日本人にとって、仕事をするということは「自分以外の誰かのため」にするものとなっていたように改めて思う。
不思議なのは、最初は誰もそんなこと思ってなかったはずなのにと言うことだ。
自分のために始めたことが、いつの間にか「自分以外の誰かのため」になってしまう。
それが幸せに結びつくならばなんの問題もない。
しかし、「自分以外の誰かのため」にと取る行動は、それが仕事であれ遊びであれ、歯車が少しズレると途端に全てが不快になるのは「自分のため」ではないからだ。
この不快感こそが、現代人が患うストレスの大元にあるのではと感じる。
制約を受けることがストレスだと思うことがあるが、自分のために好きでやってることならば、制約があるからこそ工夫の余地を見出すと言う作業を楽しむことができるということを、ふとした瞬間に感じることができる。
知らず知らずのうちに「誰かのために」生きることに慣れてしまうと、簡単なことのはずの「自分のために」が、最も遠い最も難しいことになってしまうだろう。
ブログのネタに困ったことがキッカケで、ブログを書くということがいかに「自分のため」になってるかが再確認できた。