よく使うのに、その意味をきちんと理解してないことばに「べた」がある。
理解してないというよりも、多様な意味と使いかたをされることばになっているのだ。
『べた』の解説
べたとはもともと「そのまま」という意味で使われた言葉である。ここから「特別でない」「ありきたり」といった意味を持つようになる(ベタ記事のベタはこの意)。更に「ありきたり」という意味から派生して「面白くない」といった意味でも使われる。ちなみに楽屋言葉の『べたネタ』とは特に面白みのないありきたりなネタ(関西芸人がツッコミで使う「ベタやなあ」はここからきている)、『ベタな客』とは大笑いするといった感情をあらわすことのない、おとなしい客のことをいう
「べた」には、『定番』に近い意味があるのに、使われる際には少し小馬鹿にした感じが付きまとう。
だから、「べたなものはおもしろくない」と言われたりすることが多いが、映画やドラマで大ヒットする作品が出た場合、「やっぱり、『べた』が一番だね!」とも使われることがある。
大ヒットが「べた」と表現される場合、それは限りなく『王道』に近い意味が与えられている。
何かを作り出そうとする時、カッコよく「創造」と使いたくなり、「べた」を遠くに置こうとしてしまう。
創造とは、0を1にすることだと思いがちだ。
インターネットが登場し普及するまでは、創造するとは形作ることであり、それは「0から1」というよりも「無から有」を意味していた。
概念上の産物であっても、文字や絵や写真は印刷されることによって、音や映像は録音録画されることで、形にされることで流通していたので「無から有」という変化を実感できていた。
インターネットやデジタルの普及は、「無から有」を「0から1」への変化と同じだと捉えるようになった。
形あるものがデータへと質的に変化し始めると、創造物はコンテンツと呼ばれるようになっていった。
コンテンツと呼ばれるようになったデジタル化されたデータは加工が容易だという特徴があるので、加工されたものが新たなコンテンツとなるので、無限に増殖できることになる。
増殖が容易なことは、可能性の拡大のようでもあり、陳腐化の加速のようでもある。
そういう意味では、現代はコンテンツが増殖し、溢れかえっている状態だと言える。
リアル社会にごみ問題やゴミ屋敷が増えていることと共通点があるように感じられる。
ゴミやジャンクで溢れかえったリアル社会では、片付けや断捨離が新たなセンスや技術を活かす分野として顕在化してきている。
増殖し続けるコンテンツの世界でも同じことが起きているかもしれない。
コンテンツそのものの増加だけでなく、一つ一つのコンテンツの肥大化が起きてないだろうか?
実は起きているのだ。
気付きにくいのは、通信の発達が肥大化を許容できているからであり、通信環境が悪化すると肥大化したコンテンツはジャンクと化す。
通信に依存した肥大化したコンテンツの末路は、
そもそも世の中のかなりの事は、収穫逓減の法則に従っている。
— ケビン松永 ✨ フリーランスSE (@Canary_Kun) November 18, 2018
リソースの投入量と成果は比例していかないので、高いパフォーマンスを求めていくとコスパ=パフォーマンス/コスト は下がっていくのが当たり前です。
高いコスパを求めると、パフォーマンスの絶対値が低いところで満足しないといけない pic.twitter.com/VdNQ2jubDm
コンテンツに関しては、「肥大化」の反対に目を向けざるを得なくなるのはそう遠くではないと思える。
コンテンツにおける片付けや断捨離に当たることは何になるのだろうか?
コンテンツの「スリム化」と呼ぶことは相応しそうだが、それだと言語明瞭だが意味不明でもある。
ここは、「べた」という観点から見てみたい。
「べた」が肥大化を促進させたとするならば、「べた」はユーザーを意識したマーケティング的な発想のもとに取られた方策の結果のはずだ。
上記のツイートには続きがあり、それを見ると「『べた』はコスパの追求に宿るのでは?」と思えてくる。
付加価値を上げようと「付け足す」ことが、コスパの良さにつながると考えるから肥大化を招いてると言えないだろうか?
過度に集中すると、180度反対の価値観に魅力を与えることになりやすい。
コンテンツの肥大化は、良かれとなされる懇切丁寧なサービスに通じるようにも思える。
付け足される付加価値は便利でありがたくても、悪い意味で「べた」になり印象に残らなくなりやすいのは、「予定調和」な空気感を漂わせるからかもしれないが、このことがコンテンツの作り手には見え辛いのは、情報やコンテンツの発信という行動は啓蒙的な意識がなければできないからだ。
啓蒙的であろうとすると、わかりやすく教え伝えることに価値を置く。
啓蒙的な意識があるから、ついつい肥大化するのは自然な流れとなり、予定調和的な「べた」になっていく。
しかし、だからと言ってコンテンツの贅肉を削ぎ落とすと、分かりにくさや、不親切な感じにつながりやすいが、その域まで削ぎ落とされると場合によっては、クールでカッコいいというような微妙な反応を獲得できることもある。
「店員とも話したくなければ話さなくてもいい、とても気に入っている」と、客の1人は言う。NYで人気の日本発ラーメン店。 pic.twitter.com/rntdbprSb0
— ロイター.co.jp (@Reuters_co_jp) December 8, 2018
日本では「べた」なスタイルとしてポピュラーでも、知らない人には斬新に映る。
「知らない」や「気付いてない」に着目できることは「0から1」や「無から有」と非常に近いかもしれない。
デジタルが醸し出す「0から1」という感覚の場合、意味を持つのは「0」ではなく「1」の方だと感じる、「1」とは贅肉を削ぎ落としたものが持つ無駄の無さかもしれないと思える。
「0から1」を想像する時に私がイメージするのが、原始的な火起こし。
摩擦の原理だけで、落ちてるものを拾って道具を作って行う火起こし。
できることは最低限かもしれないが、それがなければ何も始まらないというイメージだ。
「0」や「無」とは、何も存在しないというよりも、実質的には「何をやっても良い」や「何でもあり」の状態から何かを選び出すことに近い。
形作ることが「無から有」へ思えるということは実は錯覚で、よくよく考えると最初から元になるものがあり、実際には加工や表現を加えることで新しさを出すので、始まりは「無」ではないと気付くが、ではアイデアはどこから出たかと考えると、ここに「無から有」が感じられる。
「べた」や「予定調和」につながるのは、ベースになる元のものを加工するわけでもなく、表現を加えるわけでもなく、ただそれに何かを付け足すという行為やサービスを展開することに宿ると言えそう。
現代のように、モノもコンテンツも溢れている時代には付け足すという発想はもう通用しないだろう、加工するのも簡単ではないとすれば、思い切って削ぎ落とすということが大事になるかもしれない。
削ぎ落とされることで、それまで気付かなかった、それまで知らなかった新しい何かが生まれることは決して珍しいことではない。
<以下余談>
久々にmacbookairでブログを書いたら、ipadとの違いが新鮮に感じられた、13インチはこんなに大きかったのかと改めて感じられ、下書きを清書する作業もこんなに簡単にできるんだと驚いている。
昨年の12月の途中からipadでブログを書くことを楽しんでいるつもりだったが、こんなに違いがあったんだと驚いている。
新しくipad proでも買って、今後はipadにすべてを集約しようかなんて考えていたが、また迷いだしている。