違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

探しものが情報ならば、余計なものをそぎ落として捨てるくらいがちょうど良い!

写真の世界には、被写体の選び方と構図を決める際のお約束として“余計なものを写さない”という鉄則がある。

 

まさに『言うは易く行うは難し』の典型。

 

そして、この写真の鉄則は、情報全般にあてはまる。

 

情報が多いということは、必要な情報に辿り着きにくいということでもある。

 

情報を求めれば求めるほど、求めるものから遠ざかる気がする場合がある。

 

ここに大きな勘違いが起きていることが多い。

 

求めてるもの(情報に限らず)から遠ざかっているような気がする場合に起きている現象は、求めてるものが不明(自分自身が理解できていない)という現象なのだ。

 

写真の場合、被写体が人の場合、余計なものが写っていると被写体は中途半端な存在感しかない。

 

また、被写体が風景の場合、余計なものが写っていると、そもそも被写体が何なのかがわからなくなる。

 

これは、写真を見る人だけでなく撮った本人ですら感じることだ。

 

この違和感を修正できないわたしは、いつまでたっても素人のままだと反省するが、同じ理屈は情報全般にもあてはまる。

 

 

ここで重要になるのは、求めてることが何なのかを具体的に理解することなのだが、ここで勘違いが起きやすい。

 

  • 問題が何なのかを理解せずに、正解だけを探そうとする

 

  • プロセスは追求せず、結果だけを欲しがる

 

厄介なことに、世の中には結果とプロセスが結び付かないように見えることがたくさんある。

 

多くの場合は、プロセスが見えてないからそう感じるのだが、評価が結果にしか宿らない現代社会ではプロセス軽視は必然の流れと言えるだろう。

 

必要なものを見つけ出そうとするよりも、何でもかんでもたくさん集める方が、結果に早く辿り着くような錯覚が起きやすいかもしれない。

 

何でもあるというだけでは、何もないのと同じ。

 

このシンプルな理屈が、情報過多の現代の課題だ。

 

 

携帯の悪口が言いたいわけではないけれど、現代の情報との接し方を象徴している気がするので引用。

 

求めてる情報は探しものに似ていると思ったら、この曲が脳内で流れ始める。(ピエール瀧に捧げる)

 

 

余談はさておき、

 

探しものが『正解』ならば、それは情報として入手することは不可能。

 

ついでに言うと、他人にとっての正解と自分自身にとっての正解すら同じにはならない。

 

もし正解があるとするならば、自分で作るしかない。

 

正解は自分で作るしかないということは、自分にしか作れないということ。

 

ヒントを得るために外部の情報を探すにしても、その前に自分自身の内側にあるものを理解することが大事。

 

これは、ことばで言うほど簡単ではない。

 

自分自身の内側とコミュニケーションを取る場合、外にあるたくさんの情報はむしろジャマになるだけ。

 

断捨離は、形があるものだけでなく、形が無い情報にも必要!