芸人や役者がヒット作に恵まれると、視聴者が持つイメージがある程度固定化される。
その固定化されたイメージが作られたものであっても地であっても、そのイメージでの展開が繰り返されると一定の芸風が出来上がる。
芸風は理屈上は変幻自在のようでも、実際の個性と一体化するので、多重人格の持ち主でなければ一定のイメージに収束して行く。
これをもっと拡大解釈すると、意識するしないに関わらず、アウトプットとは芸風と個性の産物になっているはずだと思えてくる。
意見や考えを発すると言うことは、芸風や個性を活かしたプレゼンテーションだ。
同じ出来事や事実に対しての『意見や考え』でも、その内容には大きな違いが出るので呼び方が変わる、例えば。
- 評論
- 批評
- 批判
- 悪口
- 誹謗中傷
これらの違いだけでも大きいが、上記のそれぞれにはさらに大きく二つの違いがある。
その意見は、
- 自分のフィルターを通してのもの
- 他人のフィルターを通したもの
自分のフィルターを通してのものであっても、さらに分かれる。
- 正しい理解のもとでの意見
- 間違いや誤解のもとでの意見
- そもそも理解せずに発した意見
他人のフィルターを通した場合には、自分の意見ですらない場合がある。
- (指示や命令や依頼で行う)代弁や弁護
- 忖度
- 洗脳(マインドコントロール)
上記で挙げた項目こそが、芸風や個性に関係するようになる。
芸風や個性に、最後の味付けとして加えられるスパイスが、自らの体験だ。
しかし、この体験を疑似体験にすり替えると、それはパクりと呼ばれるようになる。(わたし個人は悪いことだと思ってないが)
ところで、現代では芸風や個性を総合してデザインと呼ぶようになっている。
昔は、表面的に形をいじることを日本ではデザインと呼んでいたが、現代ではもっとトータルで捉えるグランドデザインとして捉えるようになっている。
つまり、芸風や個性もグランドデザイン化を余儀なくされる時代になっている。
これは何を意味するかと言うと、コロコロ変わるものではあってはいけないが、要所要所では変化する必要があるということ。
日本や日本人という大枠で括ると、デザインはたくさんあるけれど、グランドデザイン(だけ)が無いと言えるかもしれない。
本来グランドデザインとは国や社会に掲げられるテーマだが、日本では機能しそうには感じられない。
だとすれば、一人一人が自分のグランドデザインを考えるしかない。
グランドデザインの敵は脆弱性。
脆弱性とは、持続性や継続性を妨げること。
どうせ何かを始めるならば、続くことが、続けられることが大事になる。
「継続は力なり」ということわざは意志を問うことばだが、それとは別に、仕組みとして持続性があることも大事になる。
今日、こんな話題を取り上げたくなったのは次の記事がキッカケ。
破産者マップについて事故物件サイト大島てるが緊急コメント「私が運営しなかった最大の理由」とは!? 弁護士見解も
私が破産者マップを作らなかった最大の理由は、官報という単一の情報源に全てを依存していることによる脆弱性の高さです。
「大島てる」には、よそでは知り得ない独自ネタがゴロゴロ転がっており、これこそが最大の売りなのです。
楽なのは転載・流用・パクリではあるが、やはり「生みの親」の称号を手に入れたい――。単に気象庁の発表を拡散するだけといった活動を手がけなかったのも、そういった想いからです。何よりも、下請けや専属は危なっかしい。
繰り返しになりますが、以上はあくまでも、なぜ私がかつて「破産者マップ」を作るのをやめたのかについて述べているのであって、「破産者マップ」作りを批判しているわけではありません。
いずれにしても、官報を熟読することを国民の皆さんには強くおすすめしたいですね。
私の持論だが、個人で取り組める脆弱性が低いこととは、コロンブスの卵のように、後から聞かされるとあまりにも簡単なことのはず!