違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『報われない』という冤罪を晴らすたった一つの方法!

子供時代に経験したことや感じた思いは、心や脳の記憶に深く刻まれることがある。

 

日本が経済成長する様が当たり前のこととして見えていたわたしには、頑張れば良いことがあると言うよりも、頑張らなければ良(好)い目に会えないのが日本というイメージがあった。

 

こういうタイプの人々は、良い目に会えないのは「頑張りが足りない」からだと思いがちだ。

 

では、子供時代を経済成長と無縁で過ごした方々には日本はどう見えているのだろうか?

 

頑張っても良い目に会えない国日本、あるいは良い目に会いたければ頑張る以外の方法を考えるしかない国日本と映るかもしれない。

 

外国と日本の関係で見ると、商社やメーカーなどグローバル企業が日本のイメージを象徴するような印象があるが、身近な生活に目を向けると、日本人にとっての日本のイメージは官や公という社会の中枢の仕組みこそがその象徴かもしれない。

 

そして、そんなイメージは内(中)にいるよりも外から見るほうがより鮮明に見えるのかもしれない。

 

  

例えば、宗教に関しては日本は無信教の国であると言われながらも八百万(やおよろず)の神の国とも言われるが、これも内から見るのと外から見るのでは印象は大違いなのだ。

 

 

他人が下す評価と自己評価のギャップが大き過ぎる場合には、不幸や不都合が生じる。

 

「信じる者は救われる」という諺があるが、日本では「信じた者がバカを見る」が身近にある。

 

それは、どこか濡れ衣的であり、無実の罪に苦しむ冤罪的な匂いを放つような気がする。

 

東京のような超過密地域で電車通勤してる方々にとっては痴漢の冤罪は「明日は我が身」と感じてる人が大勢いるだろう。

 

冤罪被害とは、遠くの世界の話ではないのだ。

 

 

 

 

 

日本では起訴されると有罪率99.9%、これはなにを意味するのだろうか?

 

 

事件と無関係な人が頼もしさを感じるであろう99.9%という数字は、関係者には絶望の数字となるが、本当の犯人であれば何も問題はない。

 

実際の事件をこれ以上取り上げる気は無くて、より関心があるのは、頑張っても良い目に会えないというのは一種の冤罪かもしれないという話だ。

 

 

頑張っても良い目に会えないというのは、頑張りが報われないということだろうが、報われるとはどういうことだろうか?

 

検索して、”報われる”というワードとともに使われることが多いことばを羅列すると、

 

  • 正しいこと
  • あきらめないこと
  • 気持ち・こころ・思い
  • 努力
  • 過去
  • 献身

 

などが多い。

 

調べていて、おもしろいことに気付いた。

 

報われるということを意味する場合、上記のようにセットで使われるワードがある場合より、遥かに多くの場合で見返りとして評価や名誉や報酬を求めているんだろうなと感じさせる表現が多いのだが、その点を具体的に表現してるものはほとんどないのだ。

 

神様に向かって「見返りを求めてる気持ちに気付いてください」と祈るような思いを込めながら抽象的な表現をするものが多いという印象なのだ。

 

この報われないという状態が、冤罪と共通するものがあるような気がしてくる。

 

違いは、本当の冤罪の場合は囚われの身となるという実害があるのだが、報われないにはそういうものはない、強いて言うなら精神的な呪縛が生じるくらいかもしれない。

 

しかし、その呪縛は気持ち一つでどうにでもなるものだ。

 

 

 

 

イチローは、野球が楽しかったのは1994年までだったと言っている。

 

1994年は、イチローが日本球界でブレークした年だ。

 

 

1995年以降、楽しめなくなった野球をひたすら高い次元で追求できたことをイチローは次のように言っている。

 

『今自分がやっていることが好きであるかどうか。 それさえあれば自分を磨こうとするし、 常に前に進もうとする自分がいるはず。』

 

 

報われないという冤罪を晴らし、報われるためのたった一つ方法をイチローは教えてくれる。

 

 

<余談>

 

久しぶりにPCでブログを書いたら、なんとストレスが少ないかと新鮮に感じられた。

 

ipadの持ち運びに慣れると数百グラムの違いしかないのに重さを感じるというデメリットもあるが、ipad一つにすべてを集約しようかなと気持ちがまた揺らぎ始めている。