違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

信頼は、錯覚と誤解につながり、冤罪へ!

情報を発信する際の、発信元の扱いとして実名で発信するか、あるいは匿名で発信するかは、現代では迷ってしかるべきテーマとなっている。

 

匿名という情報発信のスタイルは、出版や書籍の発行にあたってのペンネームや、読者や視聴者やリスナーの投稿の間口を広げる(数を増やす)ためということに由来するのだろう。

 

そして現代では、デジタルデバイスを使い個人が発信の機会を持つことが増えたが、その際に発信元としての自分をアカウントという形で自由に設定できるようになったことで、実名以外での発信が一気に身近なものになった。

 

実名だと一つだが、匿名だと複数を名乗ることもできる。

 

悪い言い方をするならば、ネット上には『怪人21面相』がたくさんいると言えるのだ。

 

匿名では信頼が得られないというのが世間の定説だ。

 

しかし、怪人21面相は犯行予告をし、その予告を実行することで、世間から恐れられたが、その恐れられることこそが怪人21面相が獲得した信頼とは言えないだろうか?

 

匿名には匿名なりの信頼獲得の方法があると思えてくる。

 

信頼とは、言語明瞭だが意味不明なことばだ。

 

 

 

 

実名だから信頼できると思いこむことは錯覚なのかもしれない。

 

 

 

「実名は信頼が置ける」という考え方には、錯覚が潜んでそうだが、ではもう一方の匿名の実態はどうだろうか?

 

匿名の投稿がアナログだった頃は、投稿が表に出るまでに時間差があり、かつ一定の選別が行われていたので、投稿する内容はなんでもありでも、表に出るのは全部ではなかった。

 

しかし、投稿がデジタルで匿名が前提となると、

 

 

リアルタイムの変遷を多少知ってるわたしの目には、匿名発信は「本音を語る」からスタートしたように映っていた。

 

「本音を語る」がやがて「相手を論破する」に変化し、「殴り合うスタイル」になって行ったように記憶しているが、そもそもわたしは「殴り合うスタイル」とは距離を取っていたので、よくわかってないかもしれない。

 

「相手を論破する」ための武器であり防衛手段が理論武装だが、理論武装は過剰になりがちだ。

 

 

 

この過剰さを後押しするのが「匿名のせい」だと世間は思っている。

 

論破することが勝ちだと思い込むから過剰さがエスカレートするのだろうが、ここに大きな誤解がある。

 

 

賢い人は、「理論武装して論破する」というスタイルは人間関係に関しては勝利ではなく敗北につながると気付けるが、これはなかなか難しい、なぜなら論破するのは気持ち良いから。

 

勝つために、理論武装して相手を論破するというスタイルは、最初は防御のためだったのかもしれないが、『攻撃こそ最大の防御』と孫子の兵法にもあるように、現代では攻撃のスタイルになっている。

 

 

『実名or匿名』というテーマには、信頼を巡って大きな誤解があるようだ。

 

きっと信頼は、錯覚と誤解に満ち溢れていて、たくさんの冤罪を生んでいる。