違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

在宅を引きこもりと呼ぶことで出来上がる市場!

『引きこもり』というワードに現在のようなネガティブなイメージが定着したのは平成に入ってからだとウィキペディアには書いてある。

 

新元号の発表を間近に控えた3月29日に中高年の引きこもりに関するデータが発表された。

 

 

最初この話題を見たときはスルーしていたが、新元号の『令和』が発表されると気分が変わり、引きこもりはおもしろい話題かもしれないと思えてきた。

 

なお、このデータそのものはウソではないかもしれないが、伝え方には一部でウソがあったことが発覚してる。

 

 

引きこもりが悪いことのように言われる前提として、「引きこもっていたら生きていけないだろう」というのがあるような気がする。

 

そもそもお金はどうなってるんだという下衆の勘ぐりも大きいだろう。

 

 

引きこもるためにもお金がいるということは、“引きこもり”にもお金が回るという「金は天下の回り物」が成り立っているということを意味する。

 

そのお金がどんな種類かはともかくとして、お金が回るということはそこに市場原理が働いているということを意味する。

 

少し前に貧困市場というワードがブラックというワードとセットで使われることが多かった。

 

 

貧困市場やブラック労働という社会問題は、政治が後押しして作り上げられた歪(いびつ)な「金は天下の回り物」現象だと言えそうだ。

 

最初わたしは、引きこもりの問題を貧困市場やブラック労働と同様に見ていたが、引きこもりは少し違うかもと思えてきた。

 

金は天下の回り物という観点で見ると、わたしを含めて多くの人の頭には「お金を得ようと思ったら外に出る必要がある」とインプットされているだろう。

 

しかし、引きこもりが成立するということは、外に出なくても市場が成立しているから「金は天下の回り物」が成り立つと思えてくる。

 

次のツイートの指摘には、なるほどと頷ける。

 

 

通勤ですら引きこもりのルーティンの外出に過ぎないというのはおもしろい!

 

引きこもりと在宅の違いとは何だろうか?

 

 

 

昔と違い現代では、外に出ないと何も始まらないと言うわけではない。

 

それどころか、見ようによっては外に出ることもデメリットはかなりあるように感じられる。

 

 

 

現代は何事も過渡期で、絶対的な正解や拠り所が無い。

 

多くの人が天秤に掛けているのは、“お金”と“ストレスの無さ”だと思われるが、どのような基準を当てはめるにせよ大事なことは自分で判断すると言うことだ。

 

同じ引きこもりでも、引きこもりと他人に言われるとバカにされたように感じるが、自称引きこもりだったら、そこには覚悟や達観が感じられる。

 

運動不足が気になるが、これも意識が高ければ実は何も問題がないはずだ。

 

冒頭で紹介したNHKのニュースでやらせを演じたのではないかと言われた山瀬健治さんが、その件について語っている。

 

真相は記事を読んで感じていただきたいが、印象に残った言葉だけ引用しておく。

 

NHKの中高年ひきこもり報道「山瀬健治」ははたしてヤラセか?

つまり、ひきこもりと、成人発達障害者の問題は、「普通でなければいけない」「他人と同じでなければいけない」という、日本社会が内に持つ硬直化への圧力による社会問題であって、当事者を責めるだけでは全く解決しない、ということです。近年は、さらにその傾向が強まっており、誰でも一度転落したら二度と這い上がれない恐怖に怯えなければならない状況に向かいつつある、と思われます。

 

 

引きこもりとは船から降りた人のように扱われているが、そもそもその船は遅かれ早かれ沈没する運命かもしれない。

 

過渡期の現在、わたしたちは沈没間近のタイタニックに乗ってるとすれば、どのように振る舞うのが最も賢いだろうか?

 

引きこもりという市場は、『令和』における要注目の一つとなるだろう。