違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

外注の罠!

生産性や効率というワードが独り歩きすると、その延長線上に必ず出現するのが『外注』。

 

そして更に、最近の副業を推進する流れの界隈でも『外注』は勢いがある。

 

令和の始まりを目前にした今だからこそ、そういう輩には騙されるなと言いたい!

 

外注とは、由来を遡ればお手伝いさんのこと。

 

忙しい時に、手や足を借りることが始まりだ。

 

しかし、現代の外注は頭脳の貸し借りになっている。

 

代理出産の場合の親とはどちらなのかが問われるように、頭脳が生み出したアイデアや知恵は、貸主のものなのか、借主のものなのかが問われ、道義的な解釈と契約に基づく法的な解釈で処理されているが、実質的には搾取の構造が拭えない。

 

 

 

現代では、手や足を貸す(=提供する)ことは下請けと呼ばれる。

 

 

頭脳の外注のように複雑さが出てくると、頭脳を貸すことはコンサルタントと呼ばれたり、ブレーンと呼ばれたり、パートナーと呼ばれる。

 

 

そんな頭脳の外注には罠や落とし穴がある。

 

 

 

 

手や足を使う人は、昭和平成と頭脳を使う人に、使われ続けてきた。

 

 

手や足を駆使すると思われてる業界にも頭脳は浸透している。

 

 

その一方で、プロ中のプロの世界では、頭脳から手足まで全部自分でこなせる人が増え始めている。

 

自分の頭脳を駆使した後、手足は外注していた人たちの一部が、自ら手足も動かし始めている。

 

アートの世界では、頭脳の外注を請け負うのがプロデューサーの役目だったが、アーティスト自身がプロデューサーを兼ねるという動きが増えている。

 

 

 

人生100年時代は、全ての人がアーティストになるなどと言われてるが、そうであるならばプロデュースのあり方は重要になる。

 

 

ところで外注の反対語はというと内製となる。

 

つまり、自前でやるということ。

 

考えるまでもなく昔はこれしか選択肢がなかったのだが、いつの間にか忘れてしまっているが、何事も自前が原点なのだ。

 

 

分業や外注という手法を知らなかった先日亡くなられたモンキーパンチさんは2016年にこう述懐している。

 

パンチ:うらやましいといえば、トキワ荘もそうです。ああいうものがあったのを知らなかったんですよ。知ってたら僕も入居して、手塚先生の絵を見ながら学んでいたと思うんだけど、それができなかったというのがものすごく残念でしょうがないです。僕の場合、師匠はいないし、アシスタントもやったことがないですし、漫画家さんをたずねていって自分の原稿を見てもらったこともなかったですから。石森(章太郎)さんたちと一緒にやってたらまた違う道に行ってたかもしれないですね。

るみ子:でも、一匹狼でやってこられたからいまの先生があるっていうのもありますからね。

 

 

外注化されているのは手足や頭脳だけでは無い。

 

ファッションや趣味嗜好のセンスや感情ですら外注されているのだ。

 

 

ある時、知り合いの若者が、「あの頃のファッションって、エモくないですか? 私たち、物心ついたときからSNSがあるのが当たり前だし、周りに『エモい』モノがないから、自分で探すしかないんです」と話していて、それが強烈に印象に残っています。

 

『必要なものや欲しいものは自分で自力で見つけるもの』という方向に時代がシフトしてるかもしれない。

 

答えは、すでに有るものの中から探して見つけるものではなく、つくる(作る、造る、創る)ものにシフトしている。

 

 

大事なことは、一人一人が自分にとって重要で譲れないことに関してはイニシアティブや主導権を行使することだ。

 

 

そういう意味では、令和には心の強さが必要になる。

 

外注が効率的で生産性が高いなどと思っていると、あっという間に使い道のない人間になるかもしれない。