人間は、さまざまな状況で自分の気持ち(≒本音)に嘘をつくことができる。
楽しくないのに笑ったり。
嫌い(≒飽きた)なのに受け入(容)れたり。
勉強したり練習したり修行するような場合でも、目的や目標があれば、キツくても厳しくても受け入れることができる、このような場合は自分の気持ちに噓をつくとは言わない。
しかし、同じことをやっていても、「これがなんの役に立つのだろう?」、「本当に役に立つのだろうか?」と思いながら取り組む場合には、自分の気持ちに噓をついていることが多い。
そんな自分自身に対して噓をつく際の主な理由や言い訳として上がるのが、
- 今は我慢する時だから
- 我慢すれば良いことがある
- いつかは報われる
自分に対して噓をつきながら始めたことでも、途中から気持ちが変化して目的や目標ができれば、噓をつくことにはならなくなる。
目標や目的が明確で揺るぎなければ、長期的な取り組みを受け入れられるようになるので、途中経過で失敗したり上手くいかないことは許容範囲に収まることが多く、失敗等を含めて目標や目的に向かっていることに充実感を感じることができる。
つまり充実感は、自分自身と向き合ってる場合に得られる感情だと分かる。
いつの頃からか目にすることが増えた『リア充』は、他人の目や他人からの評価を気にしてのものなので、実際の充実感とは全く無関係なものが多い。
ところで、『充実』の反対語は何だろうか?
辞書を引くと、『空虚、空疎』と出てくる。
一生ものだと思っていた大好きな趣味が、気が付いたらいつの間にか飽きていたという経験がある人は多いだろう。
充実してた気持ちが、気が付いたら虚しいものになるのはなぜだろうか?
『充実』⇔『空虚、空疎』は、反対語の関係であるとともに表裏一体の関係が感じられる。
『充実』とは、本来の意味は字面通り「中が隙間なく満ちている」状態。
人間の行動や活動に照らし合わせると、形が常に変化していても、その中身が詰まっていることになりそうだが、体感で得られる充実感は、なにかを達成する前の方が高く、達成後は充実感が下がるように感じられるのはなぜだろうか?
達成前の中身が詰まって無さそうな時ほど充実感が高いのはなぜだろうか?
その答えを探すと、固定化された目標や目的が大事なのではなく、未達成の課題の多さが充実感と関係がありそうな気がしてくる。
課題を少しずつクリアしながら、少しクリアするたびに新たな課題を追加することが充実感の持続に関係してるかもしれない。
課題は、果てしなく遠いものだと虚しさに繋がりやすく、簡単すぎても飽きやすくなるので、程々が大事になるだろう。
充実感を感じられる課題(≒目標や目的)を設定できることが肝だと感じられる。
できなかったことができるようになることが、できるといいなと思ってることができることが、充実感には必要なのかもしれない。
できないと悔しい、そんなレベルが大事なのかもしれない。
できて当然のことはただの予定調和だし、できなくて当然のことはできなくても悔しくない、そういうことの周辺には充実感が無いのかもしれない。
充実感を得たければ課題の設定がとわれるが、課題の設定は純粋に自分事だから、自分自身に対して嘘をつかないことが大事になる。
課題をどのように設定するかは、センスや才能が問われる行為で、こういうところから差が付いていくのだろう。