日本では「子供が親の犠牲になる」という切り口で捉えることが相応しい事件や事故が珍しくない。
子供が小さければ親としての役目の怠慢や放棄などが、親が高齢になれば介護などが該当するものとして思い浮かぶ。
こういう先入観が一般的なんだろうなと思っているところに、いきなりその正反対を意味することばが飛び込んできた。
親は絶えず子供の犠牲になる。それは永遠に繰り返される。
これは、たまたま見ていたYouTubeのドラマの中のセリフだった。
松本清張原作で向田邦子脚本で1977年にドラマ化されていた『最後の自画像』がそのドラマだ。
向田邦子が独自のアレンジを施すために使ったのが画家ゴーギャンの絵や発した言葉だった。
先のセリフはゴーギャンが言ったものなのだ。
土曜ドラマ『最後の自画像』(1977年) NHKアーカイブス
銀行を定年退職した翌日に蒸発した男性と、駆け落ちの約束をしていた女性。男はなぜ姿を消したのか…。ゴーギャンの絵を愛した男の〈自画像〉がしだいに浮かび上がる。
失踪した男性の不可解な生き様と、ゴーギャンの生き様を重ね合わせることで物語に深みが出るのだが、この物語の中では失踪した男性は、定年を機に自分の人生の終わりが見えたことで、それまでガマンし続けた家庭生活や家族を全て捨て、自分のためだけに余生を過ごすことを求めたように描かれてるが、これらは捜査をする刑事の目を通して描かれている。
世の中には、家庭や家族が一番大事な人と、そうではない人がいいる。
これは、不思議になるくらいはっきり分かれる。
家庭や家族を大事にする人は、夜の付き合いを好まないし、浮気などもしない、我慢してるのではなく、選択肢として存在してないのだ。
家庭や家族が一番大事だったら決して起きない出来事が描かれてるが、現在はこの脚本が書かれてから40年以上経過している
最近の日本人は、家族を大事にする人が増えているように感じていたが、実際には二極分化しいてるのだろう。
ゴーギャンのようなタイプの人は、もう後戻りが効かないと悟ったら自分のことしか考えられない人として行動し出すが、その行動は多くの場合賛同は得られないだろう。
久し振りにバカの壁を思い出した。
話し合っても分かり合えない人は、すぐ近くにいるかもしれない。