唐突に昔のことを思い出した。
80年代の半ば頃の話。
大学の一般教養の授業での話で、講師は国の機関(名称は忘れた)で麻薬の研究などをやってる方で学内の教授などではなかった。
その講師が最初の授業で開口一番「君たちのお父さんお母さんは今は元気でもいつ亡くなってもおかしくない」と言ったのだ。
その理由は、戦争のせいで成長期に満足な食事を摂れてないせいで血管を始め主要な臓器が非常に脆くなっているからと言っていた。
そして、君達も寿命は長くなくて早ければ40歳くらいで亡くなるだろうと言い始めた。
その理由として、日本の学校給食が壮大な食品添加物の実験だったからだと言い、スタート初期の学校給食に使われた食品添加物には本当にわけのわからないものが多かったので、それらが時間を掛けて体にどんな悪影響をもたらすか全く分からないが、とても良くないことが起こることだけは確かだと言った。
何を言ってるんだという気持ちよりも、次に何を言いだすんだろうという興味の方が強くワクワクしたことを思い出したのだ。
大学に入学したばかりの頃は世間知らずだったこともあり、仮に自分の寿命が40歳だとしても大したことないやと感じていた。
しかし、わたしが在学中に友人の親が3人ほど実際に事故ではなく病気で亡くなられたので、講師の話した内容の信憑性はわたしの中でグンと増していった。
「俺の寿命は40歳だ」、20歳代の頃のわたしの心の片隅にはいつもこのことばがあった。
覚悟を決めた生き方に聞こえるかもしれないがそういうものではない、だから仕事で目覚ましい活躍などしたことはない。
しかし30歳以降になると、このことばは心の片隅からも消えてしまった。
自分の年齢が上がると、亡くなった同級生の話を聞くことがたまにある。
それも、最近亡くなったという話ではなく、実は20代の半ばでガンで亡くなっていたという話を40歳くらいで知ったこともある。
この手の話を聞いても、講師がしていた話は思い出さなくなっていた。
いつの間にか世間では、寿命は短いことがリスクではなく、長生きこそがリスクだと言うようになった。
長生きをリスクだなんて言ったら、無念の思いで若死にしたり早死にした人に怒られるだろうなと思った時に、昔話を思い出したのだ。
人生は100年なんて、政治やメディアだけでなく一般人の日常会話にも出てくるようになると、昔の自分と比べてしまう。
今年大学に入学した学生が、授業で人生は100年だと様々データとセットで教えられたら、知らず識らずのうちに100歳まで生きるんだろうなという暗示にかかっているかもしれない。
寿命というものが生まれた時を起点とするならば、寿命はゆっくり流れるものに思えるが、何歳まで生きようが死は突然やってくる。
余命宣告されてる人だって死は突然なのだ。
格差の時代などと言われてるが、寿命にも格差はあるのだろうか?
深く考えないと、長生きすることは若死にや早死に比べて格差の上位に位置することだと思うかもしれないが、色んなことを考えれば考えるほどそんなに単純な話ではないと気付く。
寿命の格差とは何なのかは不明だが、寿命の格差は存在するような気がする、いやしてほしいと感じる。
寿命の格差には、幸せや感謝が関係するはずだ、そしてもう一つある。
人間は、自分には嘘をつけない。
寿命の格差は他の格差と違い、質の方が肝心なので、多くても大きくても意味が無く、限りなく平等に近い印象がある。
ここでいう平等とは、比較することに意味が無いという意味だ。
寿命や死すら格差で彩られるような印象があるが、格差を感じているのは周りにいる人や外野。
格差だらけの世の中で、最後の最期(=死)が平等だと思えれば、格差で一喜一憂するのはバカバカしくなる。
何歳まで生きようが、死の訪れは突然だとすると、その人生がどのような格差であったとしても全ての人に平等な最期が訪れるはずだ。
死ぬことまで考えると、寿命の格差の最上位に位置する人とは、些細なことに喜びや幸せや感謝を感じられる人だ。
その気にさえなれば誰だって出来ることなのだが、誰でもはできない、だから格差なのだ。