地位や肩書きで人を判断することは、持ち物の値段がいくらかを値踏みすることとよく似ている。
そんなときは、無意識のうちに序列化を行なっているのだ。
つまり、マウンティングをしたりされたりというのは無意識のうちに起きていて日常化しているのだ。
マウンティングが成立するためには、序列や優劣のルールが共通認識として理解されてることが必要になる。
モノで判断する場合、メーカーがどこなのか、そのデザインでそのサイズのグレードはどのランクなのか、そういうことが事前に知識として必要になる。
日本での、ブランドによる序列化の始まりのキッカケは1980年に田中康夫が発表した小説『なんとなく、クリスタル』だという気がする。
東京で生まれ育った比較的裕福な若者しか理解できないブランドやレストラン、学校や地名などの固有名詞がちりばめられており、それぞれに田中の視点を基にした丁寧な442個もの註・分析が入っており、註の多さとその分析が話題になった。
その頃から、当時の大学生を中心にした若者世代がやたらにブランドを気にするようになり、ブランドの序列化やランク付けが広まった
そしてその10年後にバブル景気が頂点を迎えた頃には、マウンティングの基礎となるブランド意識は日本人の生活に浸透していた。
そして現在に至るまでずっとブランド価値を保ち続けてるブランドもあれば、ランクダウンしたブランドや消えたブランドもある、また新たに登場し頂点を極めたブランドもある。
基礎が身につき、その基礎知識が共通認識になると、ブランドは序列化を加速させるために大いに役立つが、それは同時に息苦しさも加速させた。
そのせいもあってだろうか、脱序列化がコンセプトであるかのような商品も売れているのだ。(本来の趣旨は決して脱序列化ではないだろうが)
例えば車の世界では、最近は暴走事故で悪名が高くなったがプリウスがある。
価格帯やグレードでランク付けされることが多い車の中で、ランク付けが似合わないのがプリウスだ。
かつてエコ意識の強いハリウッドスターに支持されたように、乗ってる人の見識を示す車として理解されると、ランク付けから外れるというよりも、ランクを超えた存在となれる。
ちなみに、煽り運転の動機には過剰な優越感や過度な劣等感が爆発した結果とみる意見もあり、車のランク付けが無視できないのだ。
腕時計も一般にはランク付けの対象だが、スウォッチだけは独自の存在感を放ちスウォッチ同士で比較されることはあっても他ブランドと比較され序列化される存在ではなかった。
最近ではスマートウオッチの登場で、スマートウオッチの機能面だけでなく腕時計マウンティングが嫌な人からも選ばれている。
同様に服の分野でも、ブランドでランク付けすることが多かったがユニクロの登場は脱ブランド化を加速させ、ユニクロ自体がブランド化すると、かつてのユニクロを思わせるかのようにワークマンが人気になったりしている。
序列化やマウンティングから抜け出すことを目指すかのような動きは、デフレとの関連も無視できないだろうが、マウンティング合戦にうんざりしてるからこそ生まれてるようにも感じられる。
DIYが流行っていることも同様かもしれない。
マウンティングや序列化の世界では既製品の上位にオーダーメードが君臨するが、どちらにしても本人は買うこと以外は何もしない。
そんな世界の息苦しさから抜け出すために手作りの世界としてDIYは支持されてる側面があるように感じられる。
序列化やランク付けがなぜ起こるかといえば、多くの人のやってることが同じだから。
同じことをやってれば、よほど際立ったことをやらない限り同じにしか見えないので、ランク付けしたり序列化することで違いを示そうとするだけ。
不本意な序列化やランク付けに甘んじてることが苦痛ならば、そこから抜け出す必要がある。
具体的に何をやるかは人それぞれだろうが、活動するフィールドを変えると見える世界が全く違うということは知っておいて損は無い。