世の中ではあの手この手を使って自分のことを覚えてもらおうと一生懸命だ。
ビジネス然り、遊びの要素があるSNSの世界も然りで、覚えてもらわないことには何もスタートしない時代になっている。
覚えてもらう、覚えて欲しい、というのは能動的であるとともに、売り込み行為でもある。
この手の行為は上手く行くことばかりではなく、失敗や反省が付き物だ。
昔は失敗や反省は余程の事件や大失敗にならない限り、「人の噂も75日」で一定期間を過ぎれば忘れ去られていたし、かすかに記憶があったとしても蒸し返すほど詳しく覚えてもいないこともあり結局忘れ去られることが多かった。
仮に新聞に載るような事件になったとしても、いつの出来事だったかまで記憶してなければわざわざ探そうとも思わなくなるので、この場合もやがて忘れ去られることが多くなる。
ざっくり言うと、インターネットが普及する以前は一定期間が過ぎるとリセットされるのが当たり前だったので、間違いを犯した人が再起するチャンスはそれなりにあったし、悪い連中が間を置いて再び同じ悪事を働くことも今以上に多かったような気がする。
それに対し、現代では名前を検索するだけで過去の過ちが簡単に出てきて、いつまでも自分の人生に付き纏うことが増えている。
自分がやったこととは言え、当事者としての苦痛は相当なものがあるだろうことは容易に想像できる。
忘れてもらえるからこそ反省を活かすことができるのに、忘れてもらえなければ反省どころか逆恨みの感情が増幅されそうだ。
それでも、実際に自分がやったことであれば、どこかで達観できるかもしれないが、もし冤罪であれば怒りや不満の持って行きようがないことと、根本的な解決法がないこともあり自暴自棄になってもおかしくないだろう。
実質的な解決として法律を駆使して別人として生きるなどに活路を見いだしたくなりそうだ。
忘れ去られないという苦痛に比べれば、覚えてもらえないという悩みは幸せな悩みだと思える。
一方、最近家族による幼児虐待の不幸な事件の話を聞くと、虐待されてる幼児は忘れ去られた存在であり、覚えてもらえない存在であることが原因の一つになっているような気がする。
知ってもらうや覚えてもらうには、属する生活圏や行動半径が関係するのだろうが、この距離感がとても歪になっている。
良い悪いという価値判断が馴染まない問題だと言えるだろう。
忘れ去られる権利という話を聞いて、幸せや不幸という一見単純に見分けがついて区別できそうなことが、現代はゴチャゴチャに入り交ざっている状態だと感じられてくる。
月並みなことばだが、幸せも不幸も人の数だけあるし、それを決めるのは自分自身だということに行き着きそうだ。