受験生の頃、英語の訳で困った単語にresource(リソース)がある。
訳語としては『資源・資産』となるが、とにかく指し示す範囲が広過ぎるので、具体的には何を指しているのかを理解することが簡単ではない。
このリソースは、今や日常用語になり言語明瞭で意味不明の典型的なワードになっている。
私なりの解釈によるとリソースとは、存在するもの、定義できるもの全般を指し示すが、具体的に何を示すかは文脈から判断することになるので、解釈は人それぞれの知識やセンスに委ねられる。
おもしろいことにこの知識もセンスもリソースのなのだ。
このように考えると自然現象もリソースになるが、自然現象には意思が無いのだが、地震や台風や大雨などで災害が起きると、この意思を持たない自然現象に凶悪な悪意が感じられたり、水不足の時に雨が降れば恵みの雨と感じられそこに慈悲を感じられる。
人間の感情は、存在しないものに対してもリソース化を行うことがある。
このような場合、擬人化させることが多い。
神様という存在などだ。
人間を含めて生き物は、生まれて最後は死ぬ。
リソースという観点で生き物を捉えると、とりわけ人間に限って言うと、リソースとしての人体に最も精通してるのが解剖医だと言われる。
解剖医は人間の全ての臓器、全ての身体機能に精通し死因を特定するのに対し、一般の医師は自分の専門領域だけに特化している。
解剖医にもピンからキリまでいるが、優秀(優秀の定義はさて置き)な解剖医が答えを見出せずにいるリソースが『命』と『心』、間違いなく生きている時にはその存在を実感できるのに、死ぬと無くなる。
昔の医者の中には、命は魂という気体のようなものになって肉体から離れていくと考えて、魂の重さを計測しようと実験装置を組んだりしたこともあるらしい。
そして、死んだ瞬間に体から蒸発する水分などを差し引いても生じる差が魂の重さだとするならば、『命=魂』というリソース化が可能になると考えたりしたようだが、この手の話は結局オカルトの領域に留まっている。
さて、リソースという観点から人間活動を捉えると、赤ちゃんから幼児の頃まではやってる事はリソース遊び。
リソース遊びを通して、身体機能が発達すると同時に見えないはずの心も育ち始める。
身体機能も考え方や感じ方やセンスや才能も全てがリソースなのだ。
小学生以降になると個人差が大きくなるが、勉強にしても遊びにしてもスポーツにしてもリソースの有効活用を競い始める。
最初は上手い下手の差で表現されるが、勉強が出来れば頭が良いと言われ、スポーツが上手だと運動神経が良いと言われる。
リソースの有効活用は、すぐにある程度のレベルに達することができる人とそうでない人の差が大きい。
その後中学高校大学と進学する中でリソースの序列化が行われる。
社会に出ると要求されるリソースは『結果』になる。
会社全体で結果に向かおうとする場合は、リソースは同じ方向に集中されるので一体感が生まれるが、個人に結果が押し付けられるとリソースは分散化される。
どうせ個人に結果が求められるならば、目標としての結果は個人で設定したいと思うのは人情で、この人情もリソースだ。
いずれにしても結果が求められるならば、会社という組織に属する方が良いのか、個人でやる方が良いのかは、ストレスというリソースをどう評価するかで決め手になるような気がする。
ビジネスに限らず、遊びでも趣味でも、敢えてやることは全てリソースの有効活用合戦だ。
誰のためにやるのか?
答えの一つで全てに共通するのは『自分のために』。
もう一つが人によって様々なのだが『誰かのために』。
誰かとは?
- 会社の上司
- お客様
- 家族
- 友達
- まだ知らない誰か
全部引っくるめて自分を評価する全ての人に意識は向けられるが、全部選んでも良ければ、どれか一つでも構わない、この選択自体もリソースの有効活用の第一歩に該当する。
誰かのために以外にも選ぶことはあるが、何をやってもやらなくても、一生懸命活動しても、ボ〜ッとサボっても、リソースの生産と消費が起きていて、日々それが繰り返されている。