千葉県の森田健作知事が台風直撃時の過ごし方を巡って火だるまになっている。
台風当日、森田健作千葉県知事が被害対策に当たらず自身の別荘を公用車で訪れていた疑惑が浮上。対策本部も直撃翌日に作るお粗末さ。栗原心愛さん虐待死事件でも児相と警察との“虐待情報の全件共有”を頑なに拒否するなど“県民の命を守る”という知事の最大使命を知らない人だ。https://t.co/qs9WBfVnLU
— 門田隆将 (@KadotaRyusho) November 7, 2019
この森田健作知事の振舞いの是非はさて置き、わたしにとっての興味は、世間の災害に対する意識が変化しているように感じられることにある。
たびたびの災害を受けたからこその意識の変化だろうし、傍観者意識から当事者意識へシフトしたからこその変化であり教訓が生まれているように感じられる。
さて、怖いものの代表として古くから『地震、台風、火事、親父』などと言われていたがGoogleTrendsで見てみると、
検索可能な2004年以降では、
東日本大震災が突出してることが分かるとともに近年は台風が地震を上回り出したことが分かる。
地震と台風どちらへの関心が強いかというよりも、災害への関心の高まりが検索に現れているのだろう。
いつ来るか全くわからない地震に対し、台風の場合カウントダウンは完全に見えている。
「うわ〜突然来た〜」という地震に対し、「来るかな?」「来そうだぞ」「来るぞ」「来た〜!」となるのが台風。
備えが大事だと分かっていても、備えれば大丈夫なわけではない。
備え以上に『運』がものを言いそうな気がする。
だからと言って『運』に期待し備えを怠るときっと待っているのは後悔だ。
『備えあれば憂いなし』の反対語は『後悔先に立たず』だと改めて思い知ることになるが『運』に左右されるというところが不条理に満ちていて残酷だ。
近年の台風は地球温暖化のせいで威力を増していると言われるが、その原因を産み出している先進国が被害当事者になる分には因果応報という当然の報いとも言えそうだが、親の因果が子に巡るようなことは世の中には多い。
次のようなケースでは備えようはあったのだろうか?
これは知ってほしい事実…。
— 原貫太 / フリーランス国際協力師 (@kantahara) November 3, 2019
気候変動の影響で永久凍土の融解が進むアラスカ。生活が難しくなり、ついに先住民たちが村ごと移転を開始した。
自然と共和しながら生きる人たちが気候変動の悪影響を一番に受けるという不条理。何気ない日々の生活が、遠くの誰かを傷つけているhttps://t.co/HnzkxxiveB
生きるということは、備えようがないことに備えることなのかもしれない!