今朝ラジオで興味深いことを言っていた。
鳥の視点を持つと気付くこととして、『現在と未来』しか無く、『過去』が存在しないと。
過去を振り返ったりしてると命が危険に曝されるからだと言っていた。
『なるほどな、おもしろい』と感じた。
過去にも二種類ある。
知識や経験や知恵は過去の賜物だが、ここで言う過去はそのようなことではなく、思い出や郷愁や栄光だったりだろう。
ラジオでは、鳥の視点を持つシチュエーションとして飛んでる状態と言っていたが、この場合の飛んでるとは飛行機に乗っているような場合ではないのはもちろんだが、飛行機を操縦する人は当てはまりそうだが旅客機のパイロットが好天で操縦する時には過去が現れるかもしれない。
バンジージャンプやスカイダイビングやハンググライダーなどをイメージするとピンと来やすいかもしれない。
今風に考えるとドローンの操縦も含めて良いかもしれない。
考えを進めていくと、飛んでる場合だけでなく、スポーツとして歩いたり走ったりしてる場合も当てはまるかもと思えてくる。
歩いたり走ったりしてる時に、過去が気になり出したら、おそらく脚は止まるような気がする。
歩き続けたり、走り続けるためには、過去を振り払う必要がありそうな気がしてくる。
だとすると、過去に囚われてる状態とは、飛んでないのはもちろんとして、走ってもいないし歩いてもいない状態だと言えるのかもしれない。
現在では、時間とは過去→現在→未来へと流れると誰もがなんの違和感もなく理解してるが、歴史を遡ると時間という概念は宗教との絡みから徐々に定着し、それを数学的物理学的に理論づけられて今に至っているが、成り立ちを考えると人間だから感じ、理解してるのが時間で、とりわけ特殊な存在なのが『過去』なのだ。
『過去』に囚われるという状態は極めて人間的だと言えるかもしれないし、生きるか死ぬかという状況では弱点になるのだろう。
人間は宇宙に目を向けイノベーションに夢中になってるような一方で、歴史的な建造物や芸術や世界遺産などと過去への執着の度合いも高まっている。
今、人間は『現在や未来』と『過去』を巡って大きく二分してるような気がする。