悩みがあるから相談するのか?
相談する(したい)から悩みができるのか?
アカの他人の悩みを知ることがある。
テレホン人生相談を始め、誌(紙)上やオンラインメディア上で公開されるものが多いから。
それらを聞いたり見たり読んだりしてる人には二種類の反応がある。
- 相談者の側に感情移入する
- 回答者の側に感情移入する
相談者の側に感情移入すると、自分だったらそういう場合どのように行動するのだろうかと考える。
このように考える場合、自分自身と相談者が近いと感じたり、似てる(≒同じ)と感じたりするからかもしれない。
回答者の側に感情移入する場合は、ゲームを楽しむような気持ちで出題されたお題に対して自分なりの答えを考えてるような気持ちかもしれない。
このような場合、身近な誰かを相談者に見立てているかもしれない。
相談者の相談内容にも、回答者の答えにも、その時代が持つ空気感が知らず知らずのうちに反映されているだろう。
相談者と回答者以外にも当事者がいる。
その相談をビジネスとして企画した側だ。
企画した側には、企画を成功させる必要がある、というよりも失敗したくないという思いが強いかもしれない。
企画としての成功も失敗も、視聴者や読者の反応次第であって、相談者の満足ではないはずだ。
しかし、だからと言って相談者がいなければ企画が成り立たないので、そこのさじ加減は企画する側に求められるだろうが、そこにも時代の空気感は重要な役目を果たすはずだ。
最近の人生相談はそんなに熱心には追いかけてないが、時々タイムラインで見かけると読む程度だが、厳しいことばでの回答が昔に比べると減っているように感じる。
内容は厳しくても、ことばは柔らかくなり一定の配慮があるように感じられる。
世の中の空気が、叱られて伸びるよりも褒められて伸びたいにシフトしたことと無関係だとは思えない。
叱られるというのは、間違った場合にされること。
間違っているように感じられるからと叱ると、その叱りが通用しないことが増えているような気がする。
それに対して、褒めるというのは必ずしも褒められるような何かをしてなくても違和感なく使える、その使い方が気持ち悪くなければ。
昔は間違いなく存在していた善悪や正誤のような価値観が、フラットなものにシフトしてるとすれば、世の中から『間違ってる』が減っているのかもしれないと感じられる。
自分自身のことは意外と気付きにくいが、他人のことだとすぐに「その振る舞いは間違ってる」と反応することが増えている。
おそらく自分では気付かないだけで、他人の目からは「あなたの行動は間違ってますよ」と思われることをしてないとは限らない。
ついつい『間違ってる』と反応されることの多くに『分かってもらえない』が隠れているような気がする。
他人の行動に対して『間違ってる』と思う時には、自分が『分かってない』だけかもしれないと思うと、感情にブレーキがかかるような気がする。
逆に、『分かってもらえない』と感じる時は、自分の何かが周りや相手の感情を刺激してるかもしれないと気付いた方が良いのかもしれない。
他人の行動に『間違ってる』と感じることが多い人ほど怒りっぽくなる。
怒りっぽい人は正義感が強いなどと言われるが、正義感に見えたのは判断力の欠如なのかもしれない。
最初のきっかけである『間違ってる』という判断(反応)が間違っていたのかもしれないのだ。
表面に現れるトラブルや不都合の背景にはいくつもの『間違ってる』が組み合わさってるはずだ。
そういう場合、最初に『間違ってる』と思ったことが間違いで連鎖的に間違いが起きている。
世の中からは、思ってる以上に『間違ってる』が減っているかもしれない!