ちょっと違ってるくらいなんて、ほとんど同じようなものだと判断すると、似てるようで違うことも同じものに近づいて行く。
好き≒嫌いじゃない≒好きじゃない≒嫌い
得意≒苦手じゃない≒得意じゃない≒苦手
このような捉え方を拡大解釈すると、正反対を意味する対義語が同義語や類語に近づくという不思議が成り立つように感じられてくる。
数学で学んだことに、逆、裏、対偶というものがある。
wikipediaには次のように書いてある。
命題「AならばB」に対し、
- 対偶:「BでないならAでない」
- 逆:「BならばA」
- 裏:「AでないならBでない」
がある。
対偶の場合とは異なり、元の命題「AならばB」が正しくとも逆・裏は必ずしも正しいとは限らない(逆は必ずしも真ならず)。 しかし逆命題「BならばA」の対偶は、「AならばB」の裏「AでないならBでない」と一致するので、逆「BならばA」と裏「AでないならBでない」の真偽は必ず一致する。
さらに、おもしろいことが付け加えられている。
上述の対偶の性質は古典論理におけるそれであり、非古典論理においては成立しない場合がある。例えば直観主義論理においては、必ずしも「AならばB」とその対偶「BでないならAでない」の真偽は一致しない。
直観主義論理の特徴として、排中律の不成立(あるいは二重否定の除去の制限)があげられるが、対偶の性質はこの制限の影響を受け成立しない。なお「AならばB」から「BでないならAでない」は、直観主義論理においても導出可能である。
アカデミックな文言が並ぶので高尚な話をしてるようだが、リンク先にも目を通すと、頭が良い人達の屁理屈合戦のようにも見えてくる。
解釈のレベルだと、つくづくなんでもありの時代になっているなと感じられる。
現実の社会では、ことばは本来の定義が意味するところから離れたり、意味する範囲を拡大させたり縮小させながら、さすらいながら使われている。
鬼の首でも取ったように勝ち誇った口調で『それは矛盾してる』などと言ったり、言われたりするが、実は世の中はそんなに単純な理屈では回っていない。
福山雅治さんが演じたドラマ「ガリレオ」の主役
— satoru kamei (@kameiabduljabba) 2019年7月1日
“天才物理学者”湯川准教授のセリフに次のようなものがあるらしい。「全ての現象(結果)には、必ず理由(原因と条件)がある。」
「その原因(因)と条件(縁)を考えずに、思いつきやカン(妄想や感情)で答えを出そうとするから、苦悩が生まれる。」
冷徹な理系の分析を極めれば現象は説明できると考えることは一見正しいことのように感じられるが、そういう目を以ってしても現代の地球環境を巡っては温暖化してるという説と、寒冷化に向かってるという説の両方が存在している。
多くの人が勝ちを求めて闘っている。
何と闘っているかはさて置き、勝負の世界にはなぜか昔から『負けるが勝ち』という価値観が共存している。
「勝ち癖」「自信」というのはビジネスマンとして必要とよく言われるのですが、併せて「負け慣れ」も大事だなと僕は思います。負ける、バカにされる、恥をかく。そういうのに慣れておかないと重要な意思決定でミスしたり必要なリスクテイクできずに余計にリスクが大きくなる。自信が恐怖の原因になる。
— Yusuke Sumi (@YusukeSumi) 2019年12月15日
よ〜く周りを見渡すと、反対語に同義語のニュアンスが感じられることが増えているような気がする。
サーキットを周回する耐久レースを途中から見た時に、熾烈なバトルを繰り広げているように見えても、一方は実は周回遅れという場合がある。
ある瞬間だけを切り取っても全体像は見えてないのに、そのシーンの印象だけは残り、独り歩きする。
このようなシチュエーションの時に、同義語と反対語が紙一重の存在だと感じることがある。
このように真逆の価値観が、実は接近した存在だと思えると格差も恐れることはないかもしれない。
もしかしたら、最近の日本は世界で一人負けの様相を呈してるが、実は一周先を行ってると思えば、少しは世の中が違って見えてくるような気がしてくる。