写真家で『群集』をテーマの一つとして扱っているのが土田ヒロミさん。
写真集の後書きには次のようなことが書いてあった。
1989年以前の昭和の群衆にはベクトルが感じられた。
その後、バブル景気が崩壊すると世の中がバーチャル化に向かい出したように感じ、それまでの「群れ」とは変質してきている「群れ」のかたちに気付き出します。一つのベクトルの方向へ動くことがなくなった群れ、互いに距離をとって群れる姿が見えてきたのです。
このことを以前ブログにも書いたが、この時以来、今までとは違う意味で集団や群衆や人混みに興味が出てきた。
昔から人混みは苦手だったが、人混みを人混みの中に入らずに、少し離れたところから観察するのはおもしろいかもしれないと思い始めてる。
こんな話があった。
サセックス大学で社会心理学の群衆管理を専門としているジョン・ドゥルーリー博士は「群衆は個人と同じように心理的に特殊です」と話しています。
また、特殊な群衆を支配する「ルール」を知ることも重要とのことです。
この記事の中に書いてあることと、土田ヒロミさんの言ってることを、わたしなりに結びつけると、ベクトルを持った集団や群衆とベクトルを持たない集団や群衆は、エコシステムというか生態系が別で、例えば管理コントロールするという目線で捉えると対処法が全く異なるようだ。
ベクトルを持った集団や群衆には、傍観者には見えないルールや秩序が存在しているらしい、だから外部の理屈でコントロールしようとすると上手くいかなくなるらしい。
ベクトルを持った集団や群衆というのを説明するのは示す範囲が漠然とするので難しいが、宝塚ファンなどのようにファンの中にも行動や振舞いのルールや秩序が浸透してるもので、熱狂的なファンの行動が信者に近いものが典型だろう。
ちなみに土田ヒロミさんが群衆にベクトルを感じた最後が、1989年昭和天皇が崩御された時で、その死を悼むために皇居近くに集まった群衆に対してだった。
この指摘の興味深い点は、現在でも皇居を訪れて「天皇万歳」という方は大勢いるが、土田さんのことばを借りるならば、もはやそこにはベクトルは無いのだろう。
ではベクトルの無い集団や群衆の代表はというと、危険や危機から逃れようと集団が一斉に同じ方向に動き出したような場合だ。
外から見ると皆が同じ行動を取ってるし目的も同じなのだが、その集団内ではたまたま居合わせてる家族や知人同士以外では全く気持ちは通じ合わないだろう。
実際には、危険や危機の切迫度と時間的な猶予が関係するので、東日本大震災のように地震の後の津波に関しては時間的な猶予が発生するのでルールや秩序が成立したが、⒐11のアメリカ同時爆発テロ事件のような場合だと現場ではルールや秩序を期待することは困難だ。
ところで、上記で引用したGigazineの記事にはおもしろいことが書いてある。
シャーマ氏によると「私たちのデータは、常識的な考えを逸脱することがあります」と語っています。たとえば、ニューキャッスルにある学校は廊下が細く、学校の鐘が鳴るたびに廊下での移動が困難になる問題が発生していました。学校側は工事コストがかかっても廊下を広くする案を検討していたようですが、シャーマ氏のチームが出した結論は「学校のチャイムを廃止すれば良い」というものでした。
ベクトルの無い集団や群衆を誘発するのは、危険や危機やピンチがキッカケになるので、そのキッカケを生み出す要素を無くせば、集団や群衆が起こす不都合が排除されやすくなるかもしれないというのは一種の盲点だから新鮮に感じられる。
ところで、最近のベクトルの無い集団や群衆は、おしゃれスポットや映えスポットに集まることが多い。
これらのスポットにベストな時間帯や時期があれば、そのタイミングにベクトルなき集団や群衆が集中することになる。
これらの行動は、積極的に楽しもうとしてる行動に見えるのだが、もしかすると危機や危険から逃れるための行動とメンタリティが共通してるのかもしれない。
このように考えると、現代人が積極的に楽しんでいるように見える行動の中でも、みんなが行く場所に出かけたり、行列に並ぶ行動は、危機や危険やピンチから逃れるような行動と動機の面で共通してるとすれば謎や不思議が感じられる。
人混みに出かけ、行列に並ぶという行為を楽しんでいる人は観察対象として非常におもしろそうだ!