タイトルにはvsと付けたが優劣を競わせようとしてるわけではなく、なんとなくは理解できてることもあえて考えると分からなくなりそうなので、備忘録的に整理してみたいと思って書いている。
昭和に生まれ育った者としては、暗黙のうちに文章よりも写真が上で、写真よりも動画が上だと位置付けてしまう。
百聞は一見に如かずなんてことわざもあるが、コンテンツとして上とか下という意味ではなく、技術的なハードルの高さとしてや掛かるコストのハードルとして紙よりもフィルムの方が上(=高い)であり、書くために必要な機材や印刷技術よりも、撮影する機材や撮影されたものを再生する機材の方がハードルが高いように感じられていたからだ。
今だから分かるが、この先入観はアナログの技術に対する序列観でもあったのだ。
デジタルが普及し始めた初期の頃はインターネットの回線速度が遅かったのでアナログの序列観を壊せなかった。
そして時間が経過し、多くの分野にデジタルが浸透し普及すると一気にアナログの序列観が消えてしまったように感じられるし、むしろ逆転したように感じられる。
写真にしろ動画にしろ、クオリティを問わなければ、シャッターを押すだけであり、録画ボタンを押すだけだ。
それに対して、文章を書くという行為は、紙に筆記具で字を書くのに比べればはるかに楽になったとはいえ押す回数だけで言えば写真や動画よりも断然多い(繰り返すがクオリティを問わなければ)。
アナログからデジタルに移ったおかげでなにが違ったかというと、やり直しが容易になったことであり、編集や加工という手直しが容易になったことだ。
このおかげで、ベースになるものさえあれば後でどうにでもなるという気楽ささえ感じられるようになったが、じゃあその分より良いものが多数増えたかというと、ここは意見が分かれるところだろう。
文章にしても写真にしても動画にしても、作るだけなら誰にでもしかも容易に作業ができる環境が整っている現代では、優劣やクオリティの差はどこで付くのだろうか?
よく言われる話に情報量の違いというものがある。
検索すると、1分間の動画は180万文字に相当し、それはWEBページ3600枚に相当するという話や、動画は文章の2倍記憶に残るという話が出てきたりする。
本来は分かりやすく伝えることが目的のプレゼンや会議の場で用いられるパワーポイントだが、その是非を巡ってこんな話もある。
Amazonがパワーポイントを禁止にした理由に頷く人が多いワケ
視覚的には訴えるものがあるものの、中身がない
ただAmazonがパワポを禁止してるのは社内資料として使うことであって、社外でのプレゼンの現場では使っているらしい。
とは言え、視覚に訴える力が強いということは良いことばかりではなさそうだ。
視覚に訴えるという文化は、テレビが浸透させた。
テレビが一家に1台から、一人に1台に向かい始めたのが1980年台の半ば頃。
その頃から言われ始めるようになった不思議な現象がある。
視覚に訴える力が強い動画を駆使して報道されるニュース番組が伝えるニュース内容よりも、アナウンサーやキャスターのファッションの方が視聴者の目を惹きつけていたりするようになり始めた。
視聴者が注目してるのはニュースではないということに番組制作側が気付きだしたからだろうが、ニュース番組の女性キャスターがミニスカートのスーツ姿が定番になり出した。
伝えたいことが、伝えたいとおりに、伝わるとは限らない。
世の中には、なぜ売れてるのか、なぜヒットしてるのか、全く不明なものがたくさんある。
その一方で、自分が欲しがるものはやっぱり他人も欲しがってるなと感じることもたくさんある。
それは、発信された情報が正しく伝わった結果であり、同時に誤解されて伝わった結果でもあり、その合わせ技での結果だ。
視覚に訴えるものには二通りあると思っている。
脳を介して感情に訴えるものと思考に訴えるものの二つ。
文章も写真も動画も視覚を入り口にする。
文章と動画は、説明的であり解説的になりがちで、作った側の意図が強く出てしまう、そして時間軸が現れる。
時間軸が感じられると、思考にアピールすることが多そうだ。
これに対して写真は撮った人ですらコントロールできる範囲が狭く、そこにはいつなのかは不明でも一瞬の存在が描かれる。
一瞬は感情にアピールすることが強そうだ。
最近俳句が流行っているが、不思議なことに文章で描かれていて時間軸があるはずなのに、そこに描かれているのは一瞬の世界という場合がある。
わたしの頭には芭蕉の句が流れている。
古池や蛙飛びこむ水の音
感情にアピールする一瞬は、物語の始まりを予感させる。
まだまだ文章の世界は侮れないなと感じている。