カルロス・ゴーンさんの逃亡劇の詳細が明らかになってくると、何かマジックでも使ったかのように思われていた逃亡劇は、関係者の話によると3ヶ月前から計画が始まっていたと分かった。
マジックにネタやトリックがあるように、今回の逃亡劇も敷かれたレールに乗って行動しただけの合理的に成り立つ盲点を突きまくっただけだと明らかになってきた。
実際に起きることは、不思議なことでもすべて合理的に説明可能なのだ。
自然現象はもちろん、人間の気まぐれが引き起こしてることでも、その瞬間は合理性が介入してるはずなのだ。
後から冷静に考えると「なんであんなことしたんだろう?」と自分自身で思うことでも、その瞬間はその行動を正当化する合理的な理屈に支配されているものだ。
令和2年の始まりに世間で話題になった自殺が2件ある。
一つは、三宅雪子元議員の入水自殺。
動機はなんだろうかと詮索する向きもあれば、入水という手法を巡るものまで。
もう一つは、未遂に終わったという話もあるが、人通りの多い新宿の街中での首吊りで、多くの人に写真を撮られSNSにアップされていた。
自殺の場所になぜそこを選んだのか?
そもそもの動機は?
それを見ていた大勢は助けることよりも写真撮影を選んだのはなぜか?
共感できるかどうかは別にして、すべての行動には動機が存在し、その動機は少なくともその瞬間においてはその人にとって合理的な判断に基づいているのだ。
動機はいつでも合理的なのだ、ただその人にとってのその瞬間はという条件付きなのだ。
そんな動機に基づいての行動が失敗や間違いにつながった場合、どのような扱いになるかは文化や習慣の違いが出るものだ。
アマゾンに務める友人から同社では結果責任はさほど問われないが、自分が何をしたか?の説明責任を徹底的に問われると聞いた。個人の結果責任を問う文化は一見合理的だが
— Daisuke Inoue (@pianonoki) 2020年1月4日
・手柄の取り合い→チームの輪が乱れる
・タナボタ得点や不可抗力の失点を考慮し辛い
・ズルや不正が横行する
という欠点がある
合理の反対語は辞書的には非合理だが、実際には合理の反対語は感情(的)が近いような気がする。
しかし、合理⇄感情はグラデーションを描くような存在のはずで線引きに馴染まないような気もする。
私たちの心には合理的な部分と情動的な部分、公序良俗を守る部分と、その良俗を破って解放されたい部分があり、それらが連続的なグラデーションで繋がっています。合理的で正しい行いだけをできるわけではないのです。一つだけだと心が退屈するからです。
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) 2019年4月19日
「あの人は賢い、あの人は正しい」と判断することと、「あの人はバカだ、あの人は間違っている」と判断するのは同じ思考回路が出しているとすれば、基準は常に同じなのだろうか?
基準自体が合理⇄感情のグラデーション上を行ったり来たりと揺れ動いてるように思える。
大人になると気持ちが揺れ動くことはあまり良いことだと思われなくなるが、誰しもが本当は揺れているのに判断や行動が揺れてないとすれば、それはそれで大事なものを見失うことにつながっているのかもしれない。
結果的な失敗を恐れる場合に出番が増えるのが合理。
やりたいことをやろうとする場合に出番が増えるのは感情。
合理と感情は、敵対する関係というよりも折り合いをつける関係と言ったほうが相応しそうだ。
なんだか揺れ動いて定まらない時には、合理と感情を分けて整理すると自分が揺れてる理由が見えてくるだろう。
俺って(わたしって)、こんな人間だったんだと分かるとそれだけで気持ちが楽になるかもしれない。
冒頭で触れた三宅雪子元議員の自殺に関して次のような記事が出ていた。
三宅雪子氏 交流あったジャーナリストが明かす「暗中模索」 1/7(火)
落選してからの彼女は、長く暗中模索の様子だった。政治家として、世の中のために働きたいというエンジンがかかったまま、動かす場所を見失っていたようにみえた。それでも彼女はもがいていた。頑張ろうとしてもがいてもがいて、そしてどこかで糸が切れてしまったのだろうか。今はただ、冥福を祈るほかない。
結果を求める『合理』と、やりたい気持ちが重要な『感情』は、ピンチになると対立させてしまいがちだが、折り合いをつけることが大事だ。
折り合いをつけることを他人は妥協と呼ぶが、本人にとっては折り合いだ。
折り合いは、他人とつけるものではなく、自分自身とつけるもの。
できないことや、やりたくないことには『No』と言えることが自分を守ることになる。