縦横無尽に広がる枝葉には幹という中心があり、幹の下の見えない土中には枝葉と同じかそれ以上に根が張り巡らされている。
多様化するものを考える時は、無意識のうちに枝葉を想像する。
そして幹に相当するものは何だろうかと自然に連想しようとするだろう。
しかし、根のことは考えないかもしれない。
本当は根のことも思い浮かべる必要があるのかもしれない。
社会学や心理学(に限らないだろうが)は、複雑に見える枝葉のような世間で起こる事象に対して、中心に幹のようなシンプルな原理原則が働いているならば解き明かしたいと考え、追求したものと言えるだろう。
目に見える幹を中心にして広がる枝葉を見る場合と、広がった根が幹に集約されてる様を想像するのとでは、受ける印象が全く違ったものになる。
そのようなことが頭に浮かんだら、根につながることとして、根源に興味が湧いてきたので焦点を当ててみた。
古代ギリシアではものごとのἀρχή アルケーは何なのか、ということが問われた。このアルケーを日本語に訳す時に一般的に(/しばしば)「根源」があてられている。アリストテレスは『形而上学』で、先人たちのアルケーに関する見解を紹介し、ミレトスのタレースは万物のアルケーは水だとしたと言い、ヘラクレイトスは火、ピュタゴラスは数、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)、アナクシマンドロスは無限定(ト・アペイロン)だとしたという。
ネットを検索すると、根源的な〇〇とタイトルが付いたものを見かけるが、それらの多くは読むと枝葉に感じられるし、日常会話で使うことがある諸悪の根源も同様に枝葉に感じられることが多い。
実際の樹の根のように広がっているのが根源の特徴かもしれないが、幹のような根があるのではないかと探してみて、共感できそうなものを選んでみた。
「この先自分はどうなるんだろう」って不安は、
— ゲイの精神科医Tomy (@PdoctorTomy) 2020年1月21日
自分だけじゃなくてみんな抱えてるものよ。
人間の根源的な不安みたいなものなの。
だからなんとかなるんじゃないかしらねえ。
不安になってもならなくても、結果はかわらないしねえ。
〈自分は他の人に比べて何かすごく欠陥があって、ここにいる権利がないのではないか。全部みんなにばれていて、突然誰かに怒られて責められるのではないか〉 存在の根源的な不安って、日常の裂け目でフッと顔を出す。 (小)
— 幻冬舎plus (@gentoshap) 2019年2月28日
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検札が怖い|猫を撫でて一日終わる|pha https://t.co/t33IvV7S9Z
上記二つのツイートでは、どちらも根源的な不安と表現されてるが、むしろ全ての根源の中心に不安が鎮座してると思えてくる。
人間の場合、感じうる全ての不安や悩みはほぼ人間関係に帰属すると言われる。
極めて個人的なことであっても、家族や周りの身近な人のことを過剰に意識するから不安や悩みになってしまうという理屈だ。
失敗を恐れるのは、自分自身が自分以外の人の目を勝手に意識してるからだ。
死ぬことが怖いのはいつ死ぬか分からないからであり、死んだらどうなるか分からないからであり、死んだら誰かに迷惑がかかるのではと考えることだったりする。
もし地球上の人間が全て同時に死ぬとしたら、死ぬことは不安や悩みにすらならないだろう。
そう考えると、不安や悩みの根源は人間の場合は人間関係と言えそうだが、最近は少し変化してるのは、従来の人間関係はあるのが当たり前だったが、いつの頃からか人間関係があるのか無いのかが曖昧になってきている。
従来は人間関係が濃いから不安や悩みになっていたのだが、最近は人間関係が薄いことが新たな不安や悩みにつながってるように感じられる。
人間関係でがんじがらめになることを束縛と言うが、束縛の反対語は自由。
つまり現代人は束縛で感じていた不安や悩みから抜け出そうと自由を求めたのだが、自由が身近になると新たな不安や悩みが出てきているのだ。
このように考えると、不安や悩みの根源に見えるような気がしていた人間関係だが、その更に根源には無い物ねだりが見えてくる。
格差が著しい現代では、カネさえあればと思う人が多いが、おそらくカネがあっても別の不安や悩みが出てくるはずだ。
結局、どんな人間でも不安と悩みを抱えてることになる。
全ての人は平等だ。
神様ってすごいなと思えた!