違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『写真』+『俳句』=?

テレビ番組のプレバトのおかげか俳句が大人気。

 

俳句が好きになるなんて歳を取ったなと嘆くことなかれ!

 

最近は若い人でも好きな人が多く、中学高校の部活でも人気が出てるらしい。

 

プレバトの俳句コーナーが人気なのは夏井いつき先生の魅力に負うところも大きいだろう。

 

夏井いつきさんがプレバトを通じてお茶の間に登場するようになったのが2013年から。

 

つい最近、夏井いつき先生のことを記事にしたものがあり、こんなことを言っていた。(太字にしたのはわたし)

 

夏井いつき「文章も俳句も、美しいだけでは人の心に届かない」

たとえば句会では、最初は作者の名前を伏せたままで鑑賞しますから、性別も年齢もわかりません。どんな読み方をされても、それがまったくの誤解でも、作者は「なるほど、そういう読み方もあるんですね」と受け止める。「そうじゃありません、実はこういう意味で」とくどくど言い訳するのは、野暮の極みとされます

 

どう解釈されてもいいと思うからこそ、作者は気がねなく本音を吐き出せるんですね。読み手によってさまざまに分かれる解釈に、ある意味で守られながら自分の表現を磨いていくのが俳句というもの。

 

そういう世界で長く生きてきた人間ですから、皆さんの作品への選評も、視点がちょっとずれていたり、多少辛口と感じることもあるかもしれません。どうかご勘弁くださいね。

 

 

 

プレバトの俳句コーナーに関していうと、実は純粋な俳句ではなく、最初にお題として一枚の写真が提示されている。

 

つまり、写真+俳句。

 

17音で表現しきれない部分を写真が補完してくれているのだ。

 

現在の俳句ブームを支える影の主役が写真なのだ。

 

そして、この場合の写真とは決して特別なものでなく、何気ない日常にありふれている光景を捉えたもので、出来映えの良い写真である必要すらないのだ。

 

写真+俳句という組み合わせの相性の良さに最初に気付いたとされるのが、作家の森村誠一さんだとされていて2005年に森村誠一の写真俳句のすすめを出している。

 

わたしが実際に読んだのは2013年に出された人生の究極だったが、その中に写真と俳句が結びついたことについて書かれていた。

 

ホテルを舞台にした推理小説が多い森村誠一さんだが、それは大学卒業後ホテルで働いた経験がものを言ってるのだが、森村誠一さんは大学入学前に一旦別の仕事について、そこで得た給料を貯めてカメラを買ったのだ。

 

山登りが趣味だった森村誠一さんは作家になることを夢見ていたが、作家になった時のために自分の表現力を高めるために、登山で出会った素晴らしい景色を表現するための練習になるようにと風景を写真に撮り、その写真に見合った表現を練習していたらしい。

 

『この風景は文章になりそうだ』と思ったら写真に撮る、を習慣化していたのだ。

 

 

 

そんな森村誠一さんはブログを始めるようになって、俳句を載せるようになったが、自分のコンテンツの中で一番地味な存在だったので、少し雰囲気を盛り上げようと写真を組み合わせたところアクセスが上がったらしい。

 

それからは、俳句を意識して写真を撮るようになったとのこと。

 

そんな森村誠一さんはこんなことも言っている。

 

 

俳句の写真は一期一会ではない。

 

俳句の写真は一瞬ではなく持続性がある。

 

 

次のようなことも言っている。

 

小説は小さなものを大きく膨らませる世界。

 

俳句は十七文字に凝縮させる抽象化の極致。

 

小説家が俳句を作るとディテールが盛り込めなくて欲求不満になる。

 

 

 

これは夏井いつき先生の言ってる、

 

 

「そうじゃありません、実はこういう意味で」とくどくど言い訳するのは、野暮の極みとされます

 

 

こととも共通性が感じられる。

 

 

ディテールが盛り込めなくて欲求不満になることが多い森村誠一さんは、

 

だから写真なんです。

 

と言い、

 

さらに、

 

写真が先でも俳句が先でもどちらでも構いません、写真と俳句は似合いの夫婦に似てますね。

 

とも言っている。

 

 

俳句に興味を持つと、映える写真にこだわる必要がないことが感じられる。

 

 

こういうことも時代の変化なんだろうなと思えてくる。