書店の廃業が地場中小規模だけでなく全国規模の大型書店にも及ぶようになっている。
個人的には、本屋がなくなるとツライのは、本が買えないからよりも、立ち読みができないから。
立ち読みができないことのツラさは、無料の暇つぶしスポットがなくなるからで、おまけに本屋で立ち読みしてる姿は、知らない人が見ると目的を持って内容を吟味してるように見えるという高尚な勘違いをしてくれることにもある。
本屋が廃業に至る理由は万引きのためという理由がメジャーだった頃、本に需要があったからこそ万引きも起きていたし、立ち読みを含めて来店者が多いことで、万引きも立ち読みを装ってやりやすかったのかもしれない。
しかし時は流れ、本の需要が下がったというよりも、本屋にわざわざ行くことが減っている。
暇つぶしの仕方が変化してるのだろうなと思えるし、それを支えるのがスマホをはじめとするモバイルデバイスだろうとは容易に想像がつく。
そこでGoogleTrendsで『暇つぶし』を検索可能な2004年以降で見ると、
2012年の春頃から『暇つぶし』が急に上昇に転じてることが分かる。
検索しても、関連キーワード等を見ても、特別なキッカケがあったからというよりも、アプリやサイトの内容が充実し始めて、暇つぶしに最適なものを検索して探すことが一般的になり出したのではと想像できる。
ブラックや長時間労働が話題になる中で、順調に確実に暇つぶしの需要が維持されていることがおもしろい、これも格差なのだろうか?
それとも忙しさの合間を縫って暇つぶしをするという高等テクニックを駆使してるのだろうか?
なんだか仕事やビジネスを含めて全てが暇つぶし化してるのではと思えてくる。
モバイルという概念が浸透すると、時間や場所に縛られないと思うようになる。
いつでも化、どこでも化、が実現したように感じるが、そのことに人間の生理が付いて行けてないのではと感じられる。
マズローの欲求五段階の三番目は社会的欲求で、これは『愛と所属の欲求』と言われ、人間関係のことを意味してるのだが、この所属は人間関係だけではなく、物理的なスペースとしての居場所も含んでいると理解する方が相応しいのではと思えてくることがある。
所属してする(させられる)のが仕事やビジネスなのに対して、居場所でするのが暇つぶし、なのかもしれない。
居場所の比重が上がれば上がるほど、暇つぶしの度合いも上がるのだ。
「70歳まで働けってか」
— 大取喜想次 (@otorikisoji) 2020年1月13日
「やった70歳まで働ける」
皆さんは、どっち派ですか?
「仕事は人生の暇つぶし」と言ったのは吉本の村上ショージさん、
「遊びをせんとや生まれけむ」は、文豪開高先生。
つまりなんだ、遊びと思える仕事を見つけることが大事ってこと。
そうすれば、人生は無敵になれるぞ https://t.co/x8NOXLYmQU
人生は死ぬまでの暇つぶし、と言ったとされる人の名は検索すると複数出てくる。
ウルトラマンなどのウルトラシリーズの監督として知られる1937年生まれの実相寺昭雄さんが元祖だとする説と、1958年生まれのイラストレーターのみうらじゅんさんが元祖だとする説。
名言だけに他にも探せば出てきそうだ。
目的があろうと無かろうと、全ては暇つぶし。
目的のレベルが高かろうと低かろうと、全ては暇つぶし。
そして、暇つぶしと居場所はセットで機能する。
居場所があるから目的や暇つぶしが可能になり、目的や暇つぶしに応じて居場所を変えるようになっている。
都市への一極集中も暇つぶしのための居場所を求めてだし、田舎暮らしやポツンと一軒家暮らしも、全て居場所を中心にした暇つぶしのためなのだ。
人生には目的があるという言い方をすると多様性を感じないが、人生は死ぬまでの暇つぶしだと考えると、多様性しかないと思えてくる。
その中心にあるのが居場所。
敢えて意識しなければ、居場所なんてあって当たり前かもしれないが、言いたいことが言えるのも、やりたいことができるのも、居場所があるおかげ。
今の自分に満足してる方は、居場所に感謝しましょう。
今の自分に不満な方は、居場所を間違ってるのかもしれません。
居場所を中心に人生を考えることは新たな発見につながることでしょう!