違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ボヤキは哲学を意味していた野村監督!

野村監督が亡くなられた。

 

 

わたしにとっての野村克也さんは、選手としてでも評論家としてでもなく監督のイメージが大きい。

 

野村克也さんが監督の要請を受諾したのが1989年(平成1年)。

 

選手として現役を引退したのが1980年でそれ以降監督要請を受けても断り続けていた。

 

そんなつもりがあったのかなかったのかは不明だが、昭和から平成への移り変わりが野村監督を名監督にさせたように思えてくる。

 

野村克也さんの人間としてのおもしろさや発言の含蓄の深さが人々に伝わるようになった背景には、昭和がヒーローを求めたことに対し、平成は本物を求めるようになったことと無関係ではない気がする。

 

ヒーローには作られた虚像のイメージが付きまとうので、本物ではないと見る向きも多かったことの反動が平成の本物志向につながって行ったように感じられる。

 

わたしの野村克也さんに対するイメージは、昭和の頃は、いぶし銀といえば聞こえは良いが、陰気で地味なおじさんというものだった。

 

選手としての素晴らしい記録も、どれもナンバーワンではなかったのでインパクトも受けていなかった。

 

そんな自分自身のことを野村克也さんはこう言っていた。

 

通算600本塁打を放った1975年、マスコミの取材で、

 

「王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ」

 

と。

 

 

名選手名監督にあらず、ということばがあるが、結果的に野村克也さんは名選手でありながら名監督の称号も得ることができた。

 

今回の訃報に際しても、野村監督に直接の指導を受けたり、直接のコミュニケーションを持っていた人々が、自身のことばで独自のエピソードを交えてお悔やみを述べる姿を見ると、社交辞令ではない本物感が伝わってくる。

 

 

 

ところで野村克也さんは、監督を辞めて以降も野村監督と呼ばれることも多く、そのことが全く違和感を感じさせなかったし、他にもノムさんと呼ばれることも多かったが、改めて考えると、このような呼ばれ方に多様性がある人はとても珍しい気がする。

どの呼ばれ方が多かったのだろうかとGoogleTrendsで比較すると、

 

Google Trends「野村克也」「野村監督」「ノムさん」 2004年以降

 

平均的には野村克也さんとして検索されてるようだがピークは野村監督で時期は2009年10月。

 

この時に楽天の監督を解任され、今後は現場復帰はしないと語っていた。

 

以降は、敬意を表し野村監督としたい。

 

野村監督が考える本物の条件に苦労がある。

 

平成が令和に移行した現在、露骨に苦労を奨励することはブラックやハラスメントとされるかもしれないが、野村監督が考える苦労とは次のようなものだと語っている。

 

〜〜野村監督のことば〜〜

 

二軍を経験して良かったことは、二度とここ(二軍)には戻りたくないと思えることだ。お客さんがいないところで野球をやる虚しさ、打っても打っても自信のつかない不安。昔の人は「若い時の苦労は買ってでもしろ」といういい言葉を残したが、まさにその通りで、苦労しているかどうかは、その後の人生に大きく生きる。

スター選手の代表格といえる王貞治、長嶋茂雄のONは確かに天才的な選手だったが、その余りある才能ゆえに苦労を知らず、それぞれの哲学がなかった。だから監督としてはまったく怖くなかった。

ONに共通していたのは、目の前の試合に一喜一憂していたことだ。味方がホームランを打つと、選手と同じようにベンチを飛び出してきていた。恐らく心のどこかに、現役時代と同様の「自分が一番目立ちたい」という気持ちがあったのだろう。私にはその心境が分からなかった。最近では原辰徳がまさにこれだった。

確かに自軍の選手がいいプレーをすれば嬉しいし、リードすれば「よし!」とは思う。しかし、監督というものは「ではこの先どう守ろうか、どう逃げ切ろうか」が気になるのが普通だ。子どものようにはしゃいでいるヒマはない。

現に、川上哲治(巨人)さんや西本幸雄(阪急など)さんが試合展開によって一喜一憂していただろうか。監督が初めて喜びを露わにするのは、ゲームセットで勝ちを収めた時だ。どんなに勝っても仏頂面だった落合博満(現中日GM)までいくともはや変人だが、まだONや原辰徳(巨人)よりはマシだ。

〜〜野村監督のことばここまで〜〜

野村監督が考える苦労とは、単に辛く苦しいことではなく、生きる上での哲学につながる試行錯誤と受け取れる。

 

そんな野村監督はボヤくことでも有名だった。

 

一般論ではボヤキと愚痴は同類として扱われるが、野村監督のボヤキにはやはり哲学があったのだ。

 

野村監督の監督生活は、最下位に転落したチームの立て直しとして依頼されることから始まることがほとんどだったので、「ボヤキ」を通じてチームを強くするための理想を語り、それが頓挫したとき「何度自分自身にボヤいたことか」と語っている。

 

「選手を思うように動かせないとは、どれだけオレはヘボなんだ」と自省することも忘れなかった。

 

野村監督にとってボヤキは「理想と現実の差を表現するもの。不満を表現する愚痴とは別」だったのだ。

 

 

そして、最も重要なことは、その思いは伝わらなければ価値はゼロだということだが、結果的にボヤキは良い結果をもたらしたのだ。

 

だから、直接指導を受けた人々が、独自のエピソードを交えてお悔やみを述べるのだ。

 

 

わたしも気が付くと、野村監督だったら何と言うだろうかと楽しみにすることが増えていた。

 

熱狂的に支持するとかではないが、折に触れ話を聴いてみたいと思える人になっていた。

 

こういう人っていそうでいないものだ。

 

わたしのような思いで野村監督を見てた方は大勢いるだろう。

 

 

 

どうぞ安らかに、

 

合掌。