モノが売れない時代だと言われる。
商品の力だけでは弱いので、売り場の力が必要だと言われたりする。
はたまた、決済方法を現金からキャッシュレスにすれば売れるはずと言われたりする。
キャッシュレスでデジタル決済ができると、勝ち残るためにはポイント戦略が重要になると言われたりする。
現在は、そういう流れの中にいるが、いずれにしても買い手に選ばれようとする売り手の試行錯誤が繰り返されている。
売り手が工夫するという状態の究極として思い出すのがこの本。
いまだに読んではいないがタイトルはしっかり覚えているこの本は、今でもなにかと引用され話題にされることが多い。
今更だが、マーケの名著
— シュージ@若者応援マーケター&IT企画 (@shuji_it) 2020年2月2日
「エスキモーに氷を売る」を読んだ。
最も印象に残ったのは
"クライアントをヒーローにする"
という言葉。
当たり前ではあるが、購入決定者が
toB→社内や業界で
toC→家庭や仲間内で
ヒーローになるようなモノを提供することが、win-winの長期的な関係に繋がると再認識。 pic.twitter.com/cm0XZL2mT8
営業「競合より高いし品質悪いし、正直売れないですよ…」
— ブラック企業アナリスト 新田 龍 (@nittaryo) 2019年12月27日
社長「そこをお前らがなんとかしろよ!! 『エスキモーに氷を売る』みたいな本読んで勉強しろ!!」
私「あれは『客が求める商品を出せ、売り方を工夫しろ、良いアイデアが出る環境にしろ』と経営者に説く本なので、まず社長から読んでください」
エスキモーに氷を売るがどんな本だったのかが想像できるとともに、出版されて20年経過するがエッセンスは色褪せてないのだなと思えるし、熟成されて良い味を醸すようになってるような気もする。
需要と供給の一致というオーソドックスなことを、別なことばで表現できないだろうかと考えた時にふと浮かんだのが、
需要とは、『選ぶ』という行為で、
供給とは、『選ばれたい』という行為
なのではないかということ。
『選ぶ』にも『選ばれたい』にも思いの強さには無限のグラデーションがあるので、『選ぶ』という気持ちが弱ければ誰かに選んで欲しいと思うだろうし、与えられるもので十分だと思う場合もあるだろう。
同様に、『選ばれたい』にも無限のグラデーションがあり、気持ちが強ければ、選ばせたいとなるだろう。
この複雑なグラデーションを描く『選ぶ』と『選ばれたい』の一致を『選ばれたい』側の目線で仕掛けることが一般的なビジネスだ。
現在はイオングループの傘下に入ったダイエーは、「良い品をどんどん安く」をキャッチフレーズにして小売の頂天に君臨した時代を持つが、やがて「何でもあるけど、欲しいものだけがない」と言われるようになっていって没落した。
今という時代は、このピークを過ぎた頃のダイエーの状態に日本全体が陥っているのだろうと思える。
そこで、一部のアンテナの感度が鋭い人々が「鳴かぬなら鳴かせてしまえホトトギス」とばかりに、『選ぶ』側の人を積極的に動かすためには、エスキモーに氷を売るという発想が必要だと気付くのだ。
今の日本で1日に3食の人は、真の空腹を知っているとは言えないだろう、だから砂漠を彷徨っている人が水を求めるように食事を求めるわけではない。
都市には多くのものが売っている、東京をイメージすれば良いが、売ってるもののほとんどは東京で作られたものではなく、運ばれただけのものだ。
このことを当たり前だと思うと、生産地がどこかはあまり価値がないものになる。
しかし、食の素材に関しては生産地や生産者が付加価値を持つこともあることを経験的に知ってしまった。
テレビや雑誌などで取り上げられたり、広告宣伝の賜物だと思いやすいが、同じことをやっても同じ結果が得られるわけでもない。
味や美味しさで大きな差があるとは思えないのに、立地にも大きな違いがあるようには思えなくても、差が付くのはなぜだろうか?
携帯電話(ガラケー)の登場と普及がビジネスの大きな基本原則を変えたと言われる。
21世紀に入ると、ライバルは同業他社や隣接業界ではないというのは当たり前になってしまった。
ライバルが誰であっても繰り広げられているのはお客の、昔よりは小さくなった財布の中のお金の奪い合いであり、限られた持っている自由時間の奪い合いになっている。
選択肢が少なかった時代には気付かなかったが、選択肢が激増すると、『選ぶ』側も『選ばれる』側も肝心な判断がピント外れになりがちなのかもしれない。
最近だと、直接には商品には関係しない映えを意識することで集客に結びつけたりするという戦略も一般化している。
その場合は、映えで何を連想するかが差が付くポイントと言えるだろう
価値観の多様化は人々の守備範囲の広さにもつながっている。
広がった守備範囲は、自分が誰と闘っているのか、何と闘っているのかを全く分からなくしてしまっている。
ものや体験を通して広がった守備範囲は、仕事や学びや遊びや趣味興味という枠を越えて、投資というジャンルも大きく顕在化したので、ますます何と闘っているのかが分からなくなる。
自分のことを振り返っても、優先順位をつけて上から順番に選ぶということをやっているようにはとても思えないことに気付くが、それは逆に考えると、選んだ後に選ぶ順番を間違ったことに気付くのに似てる気もする。
結果として差は付くのだが、差が付いたことには気付いても、差を付けた原因や理由はよく分からなかったりする。
スティーブ・ジョブズが言った、『点と点はつながるが、点と点をつなげることはできない』が思い出される。
ジョブズでも点と点をつなぐことはできなかったのだ。
ただ、点を増やすことはやっていたので、後から結果的にその点同士がつながったのだとすると、できることは点を増やすことだけだ。
点を増やすためには、動機の形成が重要になる。
だとすると、二つしかないと思える。
一つは、何かに気付いて考えること。
もう一つは、考えて何かに気付くこと。
差は、小さな点の積み重ねを繰り返すことで付いていくのだ。