311の東日本大震災で起きた巨大地震はやがて巨大な津波を発生させ、多くの人たちに深刻なダメージを与えた。
誰かのせいで起きたわけでもない出来事に際しては、不思議なことに連帯感が強まり、見ず知らずの関係性の中でも協調が生まれる。
何もかも破壊されたたかのような環境の中でも、人間関係の最後の一線は保たれることが多い、もちろん細部に目を凝らすと被災地の住民でない者が被災地に略奪に訪れるようなことはあるが少数派だ。
それに対して今回のコロナウイルス騒動は311とは違い、物理的な破壊は何一つ起きていないのに、いともたやすく人間関係が壊れている。
最初は、ヨーロッパで感染発生源として中国人に対する警戒心から差別が起きたが、ヨーロッパの人たちには中国人と他のアジアや東洋の人の見分けが付かないので、十把一絡げにアジア人が差別の対象にされるなんて話も出てきた。
このヨーロッパで起きたアジア人差別も実際には一部で起きただけでヨーロッパ全体で起きてるわけではないのだが、アジア人の心を萎縮させるには十分な力を持つことになったので影響は出ているだろう。
コロナウイルスの場合は恐れるべきは濃厚接触だから、警戒の対象は人になる。
福岡でマスクをしないで電車に乗った人が咳をしていてトラブルになった動画がネット上に流れていた。
ごくごく一部の出来事だが、良くも悪くも共感を感じた人が多かったように感じられた。
自分の身を守るための反応だったのか、それともマナーに対する反応だったのか、いずれにせよ動機は怒りだ。
ちょっとした疑心暗鬼や被害妄想と真の危機は紙一重。
今実際にさまざまな現場で起きていることに目を向けると、危機を避けるつもりの疑心暗鬼や被害妄想が新たな真の危機になるという負の連鎖につながっていると感じられる。
もうすでに花粉が飛び始めているようなので花粉症の人たちには悩ましい季節が始まるのだが、花粉症の症状とコロナウイルスの症状に類似点があるようなので疑心暗鬼と被害妄想に苛まれることだろう。
人が集まる場所では思わぬ冤罪の被害者になるとも限らない。
わたしは幸い体調も良く花粉症でもないが、冬から春にはノドが乾燥すると咳が出ることがたびたびある。
咳というのは不思議なもので、してはいけないと思うと止まらなくなるし、突然襲われるので、咳が出る前にノドを潤すことを心がけてるが、今年はその思いが例年以上に強い。
コロナウイルスの件で起きている世間の出来事を見てると、社会や経済の秩序は平穏が支えているのだなと改めて実感できる。
価値の仲介役を果たすお金のように、信用や信頼も、平穏に支えられている。
しかし、平穏はいともたやすく壊れるもので、そういう意味では錯覚によく似ている。
平穏が壊れていく時は、まるでトレードオフのように怒りが増えていく。
コロナウイルスの騒動が起きなかったとしても、最近はくだらないことで怒る人が増えていた。
少しずつ確実に平穏が減っている。