インターネットの普及が大きく影響してるのだろうが、記事やコンテンツの体をした商品比較が増えている。
インターネットが普及する前は、日本では広告宣伝で露骨にライバルをこき下ろすものは作られていなかった。
テレビCMを始め雑誌や新聞等の紙面上でも。
唯一の例外に思えたのがコカコーラとペプシコーラの比較広告で、これはアメリカで実際に行われていたものを日本に持ち込んだもので、実際には日本法人化されていたがアメリカ流が持ち込まれたと話題になり、日本人にはできないななどと言われていた。
そんな様は、Wikipediaではコーラ戦争としてまとめられている。
コーラ戦争(英:Cola wars)とは、清涼飲料製造業者であるザ コカ・コーラ カンパニーとペプシコの間の、お互いを標的とした1980年代から1990年代のテレビCMおよび販売宣伝の比較広告活動である。
日本国内での比較広告は外圧として少しずつ浸透はしても、日本人のメンタリティ的にはやり過ぎじゃないのかと思われることも多かった。
比較広告はそう思われながらも徐々に浸透し、現在ではさらに巧妙化も進んでいる。
そんな比較広告が、記事やレビューの体で展開されるのがステマ(ステルスマーケティング)で、比較してライバル商品よりも良いとアピールするものもあれば、すでに優位を確保できているのにさらに独占を目指すかのようなアピールを展開することもある。
比較的直近の事例でのステマには次のようなものがあった
「アナと雪の女王2」ステマ騒動!7人のクリエーターが一斉に漫画付き賞賛書き込み 2019/12/ 6
発端はツイッターに3日(2019年12月)午後7時からわずか3分間に、7人のクリエーターがこの映画を称賛する漫画入りの投稿したことだった。いずれも「#アナ雪2と未知の旅へ」、「#アナと雪の女王2」とハッシュタグが付けられていたことから、ステマと疑われた。
この炎上に対し、7人のクリエーターが翌4日に謝罪文を投稿したが、謝罪内容がこれまた共通していたため、「誰かが指示して書かせたのだろう」と批判が増幅した。
ディズニー・ジャパンは5日なって、公式ホームページで「『感想漫画企画』に関するお詫び」と題し、コミュニケーション不足で「#広告」のハッシュタグをつけ落したと謝罪した。やはり、広告だったのだ。
いつの頃からか、ニュースサイトで見る記事に「これってどう考えても記事というより広告だよな」と感じるものが増えている。
テレビ番組も同様で、取材や偶然を装って特定の店舗を取り上げてるが、実は店舗側がお金を払っているという話はよく聞く。
何かを選択する場合、知っていることが前提になる。
知っているから選択肢に入るが、知らなければ選択肢には入らない。
だから、広告宣伝は知ってもらうことが目的になる。
しかし、知ってるものだらけで選択肢が多くなり過ぎると、結局何も知らないのと似た状態になる。
そんな時は、直前に見た情報や、インパクトのある情報に強く影響を受けるようになる。
こうなってくると、催眠術と共通する要素も必要になることが感じられるようになる。
そう言えば、マーケティングや顧客心理という分野は脳科学や心理学と相性が良さそうだ。
催眠術というと悪用して犯罪に活用するというイメージがあるが、実際には人の心の動きを察する能力で、最近風にいうとメンタリストがより相応しいような気がする。
メンタリストとして有名なDaigoさんによるとメンタリストの定義は、
心理学に基づく暗示や錯覚などのテクニックを駆使し、常識では考えられないようなパフォーマンスを見せる人を指す。
と、されている。
広告宣伝的に展開される世の中の動きの要は、このメンタリストの定義で動いているような気がする。
こんなことをなぜ思ったかというと、昨日の東京マラソンで日本新記録を出した大迫選手に関ジャニの村上さんがインタビューしている姿を見ていて、
大迫くん、村上くんのこと距離近めのアナウンサーだと思ってそうw関ジャニ∞知ってるのかな? pic.twitter.com/JSc2p0zGQu
— Do (@do_did_done) 2020年3月1日
いい歳したオッサンのわたしですら、大迫選手は顔が小さくて男前だなと感じ、むしろアイドルの村上さんが顔が大きい華やかさに欠ける人に見えてしまって哀れに感じたのだ。
そうなるとインタビューの内容なんかまるで聞こえてこないし、「早くやめてあげて」としか思えなかったのだ。
そして、ビジネスの場でも同じようなことが起きてるんだろうなと痛感した。
営業やプレゼンの現場で、一生懸命内容で勝負してるつもりでも、相手の目には内容以外のことしか伝わってないのかもしれない。
わたし達の日常は、選んだり選ばれたりの繰り返しだが、その選択の基準は十分吟味してるつもりでも、実際はけっこう曖昧なのかもしれない。
まさかそんなことがと思われることで比較し比較されているのだ。
暗示や錯覚を武器にするための勉強は現代人には必須だと痛感した。