違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

似て非なるシンパシーとエンパシー!

日常で使用頻度が高い表現は、明快にその意味を表現する単語ができやすい。

 

明快な単語表現ができない場合は、文章で違いを表現せざるを得なくなる。

 

このような違いは日本語だろうと英語だろうと、あるいはどんな言語でもあるはずだ。

 

だから、日本語には存在する、違いを表現することばが、英語には無かったりすることは珍しくないし、逆も良くある。

 

 

SNSの流行のせいだろうか、時代のキーワードは共感だと言われる。

 

日本語では共感という単語に解釈の幅が与えられ、文脈に応じてその意味やニュアンスの違いを感じ取り区別するが、その際に微妙なすれ違いが起きることが珍しくない。

 

それに対して英語では、訳として共感の意味が与えられることばに複数の単語があり、それぞれが訳としては同じでも実際には違う意味を持っている。

 

共感の訳語でも大きく三つある。

 

シンパシー(sympathy)

 

エンパシー(empathy)

 

テレパシー(telepathy)

 

この三つは、同じようでありながら違っているが、重なり合ってる部分も感じられる。

 

 

ここから先は、シンパシーとエンパシーについて。

 

そんな重なり合いながらも違っている違いを表現してる話があった。

 

「シンパシー」とは「同情する気持ち」「共感する気持ち」ですね。 「エンパシー」は「共感する能力」「感情移入する能力」のことです。 で、普通は「可哀相な人に同情しましょう」「貧しい人に優しさを」と、「シンパシー」が強調されがちなんだけど、より大切なのは「エンパシー」の方だと、ブレイディさんは言います。

現実に格闘するブレイディさん親子の日常が感動的な理由/鴻上尚史

 

 

この話の中には『カウンターの中の論理』と名付けれた体験話も書いてあるので興味のある方は読んで欲しい。

 

 

さて、シンパシーが共感する気持ちに対してエンパシーが共感する能力だとすると、違いの本質は何になるのだろうか?

 

シンパシーは、かわいそうと感じる共感であり、『わかるよその気持ち』という同情がニュアンスとして強いが、その共感や同情が何かの具体的な行動につながったりはせず、一過性の感情で終わることが多いように感じられる。

 

一方エンパシーは、感情を揺さぶる(揺さぶられる)共感で、次の新たな行動につながる動機を形成しやすいと感じられる。

 

 

一見心地良いシンパシーで結ばれた人間関係は、実は結構ダラダラとした関係性で、目標を定めて協力するというような力を生み出しにくい、そのような関係性の中では切磋琢磨も起きないだろう。

 

こうやって書きながら初めて感じているが、過去の人間関係の中には、ことばは一致するのに行動が一致しない人が大勢いたような気がするが、それはわたし自身にシンパシーとエンパシーの違いを理解する能力が欠けていたからだと今さらながら思い知らされる。

 

噛み合っていない人気関係に過剰に期待したり期待されたりを繰り返していたのだろう。

 

忖度なんていうのは、究極の悪しきシンパシーなのだろう。

 

動機は形成されてないのに行動が要求されるのが忖度だから、苦痛を伴うのは当然だ。

 

忖度する者は、別の人に忖度させるだろうから、忖度には負の連鎖がつきものとなる。

 

忖度や同調圧力が機能する前提には過剰なシンパシーが隠れている。

 

 

共感し合ってるはずなのに、気持ちがすれ違うことは珍しくない、そんな時には人が分かり合うことは難しいと感じるし、それを養老孟司先生はバカの壁と表現していて、しょうがないものだと思っていたが、実はシンパシーとエンパシーを区別しないで共感と一括りにしていたからこその葛藤なのかもしれない。

 

このように考えていくとブラック企業やブラック労働のようなブラックな関係もシンパシーとエンパシーの違いを理解しないことが原因になってるのではと思えてくる。

 

 

やる気は動機に触発される。

 

やらなければいけないと分かっていても行動が伴わない場合には、動機につながるエンパシーがないだけかもしれない。

 

先ずは、シンパシーとエンパシーの区別から始めよう!