違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

コロナが収束しても、もう元には戻らない!

コロナ対策として、世界中で外出自粛やさらに強力なロックダウン(都市封鎖)が行われている。

 

人の行き来が極端に制限されると、行動に対する許容範囲が狭くなり、生きるために最低限必要な動きに近づくようになる。

 

結果として経済には大きなダメージが出てるが、逆に考えると、今落ち込んでいる経済は全て必要の上に成り立っていたものと言うよりも、余剰の上に成り立っているものだったのだということも明らかになったような気がする。

 

余剰は、豊かさにつながるとともに、無駄と紙一重でもある。

 

敢えて皮肉な言い方をすると、そんな無駄なことに心血を注いで生きている人たちが大勢いて、そういう人たちほどコロナ騒動の初期の段階から苦しんでいる。

 

西田敏行さんが俳優を代表して声明を発表したのが3月5日。

 

 

 

しかし徐々に、その影響は必要の上に成り立っている分野にも時間差で波及するので、極々一部のUber Eatsのような特需が生じてる分野以外はほぼ全て縮小傾向にある。

 

このようになると、発想も行動も内向きになる。

 

みんなで良い思いをしようというよりも、先ずは自分だと考えるようになる。

 

 

4年前当初泡沫候補と思われていたトランプ大統領の誕生は『アメリカファースト』というグローバル化の逆行を生み出した。

 

それ以来、規模の大小はあれど『〇〇ファースト』というフレーズを聞くことが増えた。

 

この現象は、コロナが発生した今となっては、時代を見事に先読みしてたと言えそうだ。

 

スティーブ・ジョブズの『点と点は後からつながる』を思い出す。

 

 

 

グローバル化の波に乗って、国内の地産地消を縮小させた日本には気になる話題も聞こえてくる。

 

新型コロナ拡大で食料生産国 自国優先し輸出制限  日本農業新聞

 

 

『〇〇ファースト』という価値観に目覚めると、協力・協調関係に亀裂が入り、利害の対立に変化する。

 

 

コロナ対策としての給付金を巡る扱いにも不思議な現象が起きている。

 

自己責任を盾にして弱者を切り捨てそうなイメージがある欧米は早々と一律の給付金を交付しているのは、国も国民も共にコロナと戦っているという共通認識が成立してるからだ。

 

それに対して空気を読み合うのが得意な日本では、国と国民の思いは一致しない。

 

世間の噂を見てると、国民とすれ違っているのは国というよりも財務省のようだ。

 

 

どうやら財務省は家庭の主婦のような意識で運営されてるようで、赤字や借金を極端に恐れているようなのだ。

 

一見正しいと思えるが、個人の生活でする借金や赤字と違って、取り立てる人を恐れる必要はないにも関わらず恐れているのだ。

 

恐れていると言うよりも、国民を甘やかしてはいけないとすら思っているかのようだ。

 

つまり、コロナという外敵に対して、本来一体となって戦うところで、一体にならずに逆に内部でいがみ合っているのが今の日本のように見えてくる。

 

 

資金繰りがつかない事業者が、納税猶予を相談すると、こういう時期だから納税猶予は利用可能だが、その場合は延滞税が発生すると言われたりしてるらしいが、この件を巡って時系列で見ると。

 

 

 

 

 

 

 

ツンデレかよ!

 

 

取り敢えず中間納税に関しては一息つけそうだが、そもそもこの中間納税(予定納税とも呼ばれる)は、多くの事業者(経営者)が不満を持っている仕組みで、発生するかもしれない税金の担保として現金を先払いさせるというシステムで、最終的にはプラスマイナスゼロになるので損はしないのだが、確実に資金繰りにダメージを与えるのだ。

 

逆に言うと、税務署(≒財務省)が取りっぱぐれないためのシステムで、国(財務省)と国民(事業者)が対立関係だからこそのシステムだ。

 

 

日本で生活するためには今のところこの仕組みから逃げることはできないので、確実に拭えないストレスになる。

 

だとすれば、その他たくさんあるストレスの種からは離れた方が良いのは当然だろう。

 

コロナ騒動で否応なく強いられてる自粛を通して、『ああ、これは無くても平気だ、無くても大丈夫だ』と気付くものも多いはず。

 

逆に、『これは絶対いるな』と痛感してるものもあるだろう。

 

コロナが収束しても、賢い人はもう元には戻らないだろうなと思えてくる。

 

これはこれで、新たな悲喜交々劇を生むだろう。