違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

コロナは『都市』の魅力を奪っている!

何もないまっさらな状態では創造しか起こらない。

 

というよりも、やること為すこと全てが創造になるといった方が的を射てるだろうか。

 

やがて、新たな創造を求めると、旧い創造を破壊する必要が出てくる。

 

こうして、時間と歴史を積み重ねると、創造も破壊も繰り返されることには変わりないが、規模も頻度も小さなものにならざるを得なくなる。

 

 

 

歴史に残るような大きな創造が起きる前には、必然的に大きな破壊が必要になる。

 

しかし、たとえ新しい大きな創造のためとはいえ、人為的に意図的に大きな破壊を喜んで行うことは普通はできない。

 

なによりも、破壊から創造へのプロセスには時間が掛かることが最大のネックになる。

 

そんな役目を果たすのが偶発的に起きる世界を巻き込む大戦争や、神の悪戯のような地球規模の大災害になる。

 

どうやらコロナは、地球規模の大災害に類する事態になることを避けられそうにない気がする。

 

だとすると、今そしてこれから起きることは先ずは大規模な創造が起きる前の大規模な破壊だ。

 

 

今起きてることが歴史的な宿命だとするならば、受け入れるしかない。

 

受け入れた上で、対処することが必要になる。

 

明石家さんまさんではないが、生きてるだけで丸儲けなのだ。

 

 

 

 

〜〜以下引用〜〜

 

悪夢をある程度コントロールしたい人は、「奇妙なこと」に焦点を当てるといいかもしれない、とルビー氏は語る。「物理法則を曲げるなどして背景を変えれば、視点が変わり、別の切り口を思いつくかもしれません。常識を変えれば、感情を変えたり抑えたりするのに役立つかもしれないのです」

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

 

 

今起きてる、これから起きる破壊は、あくまでもその後に続く創造のためなのだ。

 

 

世の中を見る際の視点を変えることも必要になるだろう。

 

 

「アートを観る会」と「観察」という行為

「なるほど!この人はこういう風に作品を観ているのかな?」

「あっ!ここでこの方の見え方が変わったのかな?」

「何だか…発言が揺らいでいる?」

「声の高さが変わった!」などなど。

 

 

 

観察と考察が、美意識を鍛える

観察とは、ただ見ているだけでなく、ほかの絵と見比べることで、格段に得られる情報量が上がります。ですので、美術雑誌や画集、図録などの解説を読むのはもちろんなのですが、たとえば印象派の絵が好きでしたら、同じテーマ(風景画や人物画など)の絵を別々の画家で見比べたり、まったく違う時代の絵と見比べて観察する力を鍛えます。

 

 

 

 

そんなアートを愛でるような目で、被写体を観察するように眺めることで見えてくることがある。

 

 

わたしを含め多くの人たちが、見方の試行錯誤をしてることだろう。

 

 

 

 

コロナ後の世界では多くの若者が覚醒し"グレタ化"する?

 

〜〜以下引用〜〜

 

オールド左翼の目標が革命なら、こちらの目標は「覚醒」。誰かと連帯するよりも、まず自分の意思で自らのライフスタイルを変えることから始めるダイレクトアクションです。今まではごく一部の"意識高い人"だけのものだった言動が、コロナ後の世界では相当に広がっていくかもしれません。

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

 

ラジオで佐藤優さんがおもしろいことを言っていた。

 

自粛で休校になってることをキッカケに新学期のスタートを国際標準の9月に制度設計し直すことが今だったら可能だと言っている。

 

なるほど!、と感心させられた。

 

以下のYouTubeの15分頃からしゃべっている。

 

 

youtu.be

 

 

さて、今現在のプランAはコロナをやり過ごすことだが、同時にプランBやプランCとしてコロナ収束後の世の中や自分を考えることも必要だ。

 

世の中に対する見方を変えるといえば、都市の位置づけがコロナによって激変させられているように感じる。

 

都市のメリットや強みが一気に弱点として露呈したのだ。

 

人口が集中し、普通にしてるだけですぐそこに密集が生じる環境は、インフラの維持やビジネスや商売には最適な環境だとされていた。

 

同じ理由で、人口が少ない地域は、未来に向かって夢や希望が語れない環境だというイメージがほぼ定着しかけていた。

 

そういうイメージが定着する背景には、都市の洗練された人間関係に対して、地方のムラ社会的な人間関係という対比で語られていたこともあった。

 

しかし、コロナは都市に傾いていた価値観を根底から壊し始めたようにも感じられる。

 

わたしは最初は都市の人口一極集中(日本の場合、東京に限らず各地方の中核都市を含め)という括りで見ていたが、自粛が実施されて以降の人々の振る舞いや気の緩みとも取れる行動が報じられる様子を見ていると、都市の弱点はハイソサイエティな層に隣接してスラム層が存在することだと思うようになっていった。

 

わざと下品な言い方をするならば、高級なフランス料理店や高級イタリア料理店や高級寿司店の裏側には必ずドブネズミやゴキブリが巣食っている姿だ。

 

このような生態系は過疎が心配されるエリアでは起きない。

 

都市は、どんなにキレイにしても、清潔のためにどんな努力をしても、それが実を結びづらい構造の上に成り立っているのではと思うようになって行った。

 

 

スラムというのはイメージとしては次のツイートのようなイメージがあり、日本には馴染まない気もする。

 

 

 

 

 

 

日本人にとってスラムのイメージが曖昧なのは、目に見える極度の貧困や無秩序が少ないからだが、街としてのスラムは少なくても、スラム的な価値観を持った人は増えてるのではないだろうか。

 

 

Wikipediaではスラムでの生活を、健康や安全や道徳が脅かされると書いてあるが、健康や安全や道徳などどうでもいいやと生き続けた人が急にコロナだけ恐れて対応してもその行動は持続しないだろう。

 

生活ぶりだけがスラムを決定づけるのではなく、生活を通して身につく価値観が重要だからだ。

 

 

ただそんな無秩序な世界でも適切なキーマンがいれば別なのだ。

 

 

 

 

都市と地方の対比は物理的に距離が離れてることで一定のバランスを保ちつつ格差を拡大させたが、テレビや報道で知る格差に過ぎない。

 

一方、都市に隣接するスラムで生まれる価値観の根底には『富裕層vs貧困層』が背中合わせであり、物理的に共有する同一空間の目の前で拡大していた格差を見せつけられていた。

 

 

都市で辛うじて成立していた微妙なバランスをコロナが失わせているようにも感じられる。

 

 

人が大勢集まることで高効率を成り立たせていたインフラやビジネス、中でもエンターテインメントに関連することや交通は肩を寄せ合うように並ぶことが避けられないものは今後維持できるのだろうか?

 

昨年の夏の台風で一気にネガティブな風が吹き始めたタワーマンションのように、都市を象徴する価値観に逆風が吹き始めたことは間違いないように感じられる。

 

 

密集しないという新しい価値観は定着するのだろうか?

 

都市生活者は、自身が密集してるなんて感じてないかもしれないが。

 

 

コロナ前は都市の存在を否定する考え方など誰も見向きもしなかったが、そんな考えを180度変える可能性をコロナが秘めてるとするならば、コロナを応援したい気持ちも拭えない。