大学に入学して同学年の友達や先輩たちと話していて驚いたことがある。
皆が政治や政治家について熱弁を振るうのだ。
実際には皆ではなかっただろうが、熱弁を振るう人は目立っていたし、わたしの目には魅力的だった。
わたしは理系崩れの文系で、社会科(地理や歴史)を勉強せずに代わりに数学が好きだという受験生だったこともあるからか、受験生として勉強してることと現実社会の動きにつながりがあるとは感じにくい生活を送っていたので、新聞の3面記事くらいは見ていたが1面2面に関してはちんぷんかんぷんだった。
しかし、社会科が好きだった人や受験時代に良い先生と出会えた人たちは世の中の動きに関心を持ち、世の中に関心を持った人々は自然と政治や政治家について語るようになっていたのだ。
政治や政治家を熱く語る姿は眩しく映り、一念発起して少し勉強してみるかと思い何冊か買い込んだがまるで頭に入ってこなかった。
今にして思うと、マンガや小説を選ぶべきだったと思うが、基礎知識もまるでない状態で専門書を買っていたのだ。
これ以降、政治は苦手だとインプットされてしまった。
それから数年経ち、たまたまだが政治に関心を持たざるを得なくなってしまった。
当時勤めてる会社が議員にすり寄って政治を使って自社のビジネスを有利に展開しようとする会社で、わたしはお使い小僧として議員や秘書と接触する機会が時々生じるようになっていた。
実態感が感じられなかった政治や政治家が、一気に身近で生臭い匂いを発してることを知ることになったのだ。
久しぶりにあった大学時代の友人にそんな話をすると、昔熱弁を振るってわたしを圧倒していた友人が、わたしの話を羨ましそうに聞いていることに気付いた。
その時になんとなく気付いたのが、政治や政治家について語るというのは一見高いレベルの話をしてるように感じられるが、実際には自分がどういう生活をしてるかということの反映なのだろうということだった。
政治や政治家について語らないのは、自分にとって身近じゃないから興味が持てないだけで、語る人は身近で興味があるだけなのだ。
つまり、語る人にとっては政治や政治家は趣味の対象か利益に直結してるかなのだ。
そういう目で芸能人の政治的発言を見ると、その立ち位置がよく分かる。
コロナで活躍の場を奪われた芸能人は政治に不満を感じるだろう。
その中でも、リーダー的な立場の方は自分のことだけでなく自分より立場の弱い仲間のことも慮って代弁しなければと感じるだろう。
こういう発言がタイムリーでかつ内容が的を射てると賛同する人が増えるかというと、『苦しんでるのはお前らだけじゃないぞ』と非難も集まる。
普段は政治と距離を取っている芸能人が、不満を感じた時に政治的な発言は出やすいのだ。
そんな中で、面白い記事があった。
今度は逆に、普段から政治に近い芸能人が、誰もが不満を口にする時に黙り込むという現象だ。
文春オンラインでコラムを書きました。久しぶりに芸能芸能したコラムを書いた気がした。よろしくお願いします。
— 西澤千央 (@chihiro_nishi) 2020年5月23日
指原莉乃さんの「政治的発言」が炎上 「テレビの女王」が世間とズレてきた? #指原莉乃 #ワイドナショー #文春オンライン https://t.co/6oCTCoecat
詳しくは記事を読んで欲しいが、政治的発言とは誰もが自分は正しいと思って発する意見であったり、自分の立場では言えることはこれだけですというポジショントークだということ。
現在に満足してる人は現在の政治を悪く言わないし、これ以上悪くなって欲しくないと思う人も現在の継続を望むという意味では、現在の政治を悪く言わないかもしれない。
しかし、不満を感じてる人は現在の政治が変わることを望むし、発言もそちらに寄っていくだろう。
趣味は飽きたり嫌になったらやめたり変えることが自由だが、政治は飽きても嫌になってもやめる自由も変える自由も投票権しかないのだ。
だからこそ、政治に対する不満は抑えられなくなるのだ。
政治的発言が目立つということは、当たり前だが不満の方が多いから。