違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『今』の時間の幅!

時間の流れを数直線的なイメージで考える時は、今(現在)を原点に設定し左側が過去で右側が未来になる。

 

時間の概念を理解できる人ならばごく当たり前に行うことだが、この数直線の最小目盛りにどのような時間幅を与えるかでかなり印象が変わるのだ。

 

秒単位で目盛りを設定すれば、『今』は原点に固定されず次から次に過去へ流れて行き、代わりに次から次に押し寄せる未来が置き換わっていく。

 

 

熊本県の球磨川の氾濫で犠牲になられた方や被害に遭われた方が感じる時間と、現地の様子を報道を介して見てる人が感じる時間はまるで違うはずだ。

 

 

わたしにとって大災害が詳細な映像で伝えられるようになったと記憶してる最初が地震に関しては1995年の阪神大震災で、人災としては2001年の航空機乗っ取り自爆のアメリカ同時多発テロが最初で、その後の大災害や大事件の多くは映像を伴い報道されるので、かなり感情移入し自分が当事者になったかのような疑似体験を味わえるようになった。

 

エンタメとしてのパニック映画などと違い、実際の被害の映像を通して被災者に感情移入すると心は穏やかでいられなくなる。

 

 

球磨川の氾濫の被災者の映像を見ていて、これからこの方達はどうなるのだろうか、明日からどうするのだろうかと思ってしまうが、被災者へのインタビュー映像などを見てると、意外と気丈にしてる方も多くむしろわたしの方が『そんなこと言ってる場合じゃないだろう』と思うこともあるくらいだが、ふと当事者と傍観者では感じてる時間が全く違うのだと思った。

 

時間が違うというよりも、当てはめてる時間軸の目盛りが全く違うのだと感じられたのだ。

 

意識してやってるのではなく、無意識のうちにそうなるのだろう。

 

 

傍観者にとっては1秒は1秒であり1分は1分で、今現在は次から次に過去へ流れて行き、代わりに未来が次から次に押し寄せて来るのだが、被災者にとっては被災した瞬間から始まった今現在がしばらくずっと続くのではないかと感じた。

 

おそらく今現在を生きてる限りは、落ち込む気持ちは引っ込んで、やらなければいけないことに没頭する気持ちの方がはるかに上回っているのだろうと感じられた。

 

 

 

人はなにかに集中して打ち込んでる時や没頭してる時は、時間の流れを忘れる。

 

食事やトイレはもちろん睡眠だって必要になるが、それらを最低限にして集中して何かをやってる時は、一応の目処がつくまでは過去も未来も関係ない今だけが続く。

 

目処がついて、ずっと続いた今から開放された場合には充実感があるだろうが、を続けさせていた緊張の糸がある瞬間にプツンと切れてしまうと、受け容れ難い未来が一気に押し寄せることになる。

 

 

私たちは被害が起きた時の情報には多く接するが、その割にはその後の情報には無頓着だが、それは被災者が感じてる今を知ることはできても、その後の被災者に訪れた未来に関しては無知なのだということを示している。

 

 

 

今を一生懸命な人は明日のことを語ることはあってもあまり未来を語らないものなのかもしれない。

 

 

 

実現できるかどうかは別にして、明るい未来や将来を考えたり語ったりすることは、かなりの心の余裕があって初めてできることなのだ。

 

つまりそれができるだけで十分幸せなのだ。

 

 

どのような時間軸を当てはめながら生きているかで考え方や感じ方は大きく違っているはずだ。