2年前にバーチャルの反対語はフィジカルだという話を書いたことがある。
バーチャルなんて当分主流になることはないだろうという思いがあったが、わずか2年で事態は一変した。
バーチャルとフィジカルを対比させて考えることよりも、バーチャルという選択肢を持っていたことのありがたさとタイミングの良さには運命や宿命すら感じられる。
運命や宿命は、福をもたらすこともあれば残酷をもたらすこともある。
ご存知のようにコロナのせいで仕方なく普及の兆しを見せたものにインターネットを使ってのテレワークやバーチャル会議があり、これに対応、適応できるかでビジネスパーソンとしての能力がある程度分かるという意味で現代の踏み絵的な役割を果たしているようだ。
おもしろいことに、表向き経験を積み重ねたはずの人ほど新しいことに対応適応できないことが露呈しているようだが、もともと使えなかった人の使えなさに言い訳が通用しなくなったとも言えそうな感じを漂わせている。
テレワークやバーチャル会議に馴染めない人に共通してる心理が、直接会って取るコミュニケーション以上のコミュニケーションはないという思い込み。
年齢や世代の違いで起きているようにも感じられるが、必ずしもそうではなく、先入観による向き不向きに起因してるように感じられる。
ビジネスや遊びや趣味の分野よりも教育分野でおもしろい現象が見られるらしい。
すべての分野に共通してるのだろうが、特に教育が落ちこぼれを作らないようにと目指すから気付いたことかもしれないが、次のようなことが目立つらしいのだ。
テレワークで複数の生徒を同時に見てると、先生の話だけを聞いて内容を理解できる少数の子どもとそうでない子の差が極端に付くらしいのだ。
テレワークでは、分からない子どもは分からないままで、どこが分からないかも分からない状態になるらしいのだ。
同じ空間にいれば『分かりません』と言えることも、あるいは先生の目から見ていて明らかに理解できてなさそうな子どもは一目瞭然だっただろうが、バーチャルな空間では言い辛かったり独特の間や空気が出来上がるはず。
実際の教室の中では、分からない子どもの多くが、分かってる子どものやってることを見よう見まねで真似して、その結果なんとなくできるようになってるらしいのだが、バーチャル教室ではそれができないので生徒の格差も顕著になるらしいのだ。
これと同じことが大人社会で起きていてもなんの不思議もない。
なんとなく周りを見渡しながら自分の行動を決めることは日本ではおそらく多数派のはずだ。
自主性やオリジナリティや結果を重視する傾向は強くなっても、肝心要のポイントでは同調圧力や忖度が求められる日本では、多くの人が周りの人の動きを見ながら自分の振る舞いを決めてる人が多くて当然だ。
しかし、一部ではとはいえ、ビジネスの場でもバーチャルが浸透し始めたことで、周りの動きを見ながら自分の振る舞いを決めるというスタイルでは世渡り上手になれなくなる可能性が高まったのだ。
同時に、このことは同調圧力や忖度を弱めることにも作用し、結果として予定調和を遠ざけるように作用するはず。
だとするならば、コミュニケーションにおけるバーチャルを許容し、使いこなせることが大事になるはず。
今のところ、バーチャルでのコミュニケーションは知り合い同士であることが前提で取られてるだろうが、今後はバーチャルな場で初対面を迎えるコミュニケーションは増えるだろう。
出会い系のような出会いではない場にもバーチャルが浸透すると、独自のマナーやリテラシーも自然発生的に生まれるだろう。
そこで生まれるマナーやリテラシーを後から教えてもらおうと思ってる人は完全に時代に取り残されるはず。
今後生まれるバーチャルの流れには初期の段階から乗った方が良いに違いない!