7月11日岐阜県瑞浪市で樹齢1000年を超えるご神木が大雨のせいで倒れたが、周りに大きな被害を与えることなく倒れたことが奇跡だと話題になっていた。
そして、追加の奇跡も昨日流れてきた。
【奇跡 ご神木倒れたが剣は無傷】https://t.co/nH7JUcvgoo
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) 2020年7月17日
「ご神木」が倒れた岐阜県瑞浪市の大湫神明神社で、押しつぶされた蔵の中から、地元の彫刻家が奉納した「剣」がほぼ無傷で見つかった。地域では、倒木でけが人が出なかったことに続く「奇跡」に喜びの声。
このニュースに対する世間の反応を見てると、日本というのは本当にやおよろずの神の国だなと思えてくる。
ものをありがたがり大事にするという意味では良いことだが、いつでもどこでもなんでもが宗教の対象にされてるんだなと改めて実感できる。
このご神木が倒れたことで大きな被害が出ていたら、おそらく神の怒りや呪いや怨念などを理由にして、倒れたことが正当化されたんだろうなと思えてくる。
内心では、本当にご神木だったら倒れるわけないじゃんと思ってる人は大勢いるはずだ。
そのように考えてると、神様がいたとしても、神様にも消費期限があるんだろうなと思えてきて、消費期限がとっくに過ぎた神様をいまだにありがたがってる人が大勢いるだろうことが想像できる。
先月、香川県の金比羅宮が神社本庁からの離脱を表明した。
離脱の理由に『嫌がらせを受けていた』とあることを見ても、なにかをありがたがる背後に神や仏が出てくる場合、そこに関わってる人間には問題を抱えた人物が多いのだろうなと想像できる。
もし神や仏を信じるならば、自分の心の内側に神や仏を置くべきで、自分の外側にあるものを神や仏と崇めると大事なことを見失うのだろうと痛感する。
他人に利用されたり振り回される人は、自分の外側に神や仏を置いているのかもしれない。
神や仏は、いるとするならば自分の心の内側にしか存在しないし、本当にいるならば自分とだけしかコミュニケーションは取れないので、外側から神の声を伝えるなどというのはインチキだと気付いた方が良い。