一般的には、外側に存在する知識や見識を見たり読んだり聞いたりしながら自分の内側に取り込むことはインプットと呼ばれる。
それに対して、なんらかの表現手段を用いて作品やコンテンツを作ることはアウトプットと呼ばれる、この中にはスポーツやエンタメのやる側の行為は全般的にアウトプットに該当するはずだ。
インプットもアウトプットも難しく考えるとキリがないが、簡単に考えても構わないので、人間の行動や活動とは何をやってもインプットにもなればアウトプットにもなる。
はずなのだが、いつの頃からか特に日本では、多くの活動や行動がインプット偏重でアウトプットが少ないといわれるようになっている。
インプットが増えることは本来は自由が増えることだと思えるのだが、日本では気持ちの解放に向かうというよりも、むしろ束縛や呪縛に向かうように感じられる。
それは、インプットする際にマナーやルールもセットでくっ付いてくるからなのかなと勝手に思ったりもする。
本来は手段やプロセスだと思われるものが目的化してることも感じられる。
例えば最近ブームといわれる筋トレの場合、筋トレはインプットなのかアウトプットなのか?
鍛えた体で『何か』を成し遂げたいと思えばインプットになるのだろう、その場合は『何か』がアウトプットになる。
もし、健康のために虚弱体質を改善したいと思うならば筋トレはアウトプットだと考えられるし、この延長線上にはボディビルも位置する。
しかし、そのようなケースはむしろ少数派で、実際には筋トレしてると言ってる人の多くがジムに入会してるだけだったり、たまに行くだけという人も多く、中には自由にシャワーが使える場所を得るために入会してる人も多いらしいと聞く。
一般的には行動することはアウトプットだといわれるが、では購買行動はどうなるか?
例えばPCを買った場合、それで資料を作成し論文を書き上げるならばアウトプットだろうが、ネットサーフィンしたり動画鑑賞に使用するならインプットになることを考えると、何のために買うかで変わりそうだ。
同様に、食材を買って料理を作るならばアウトプットで、お弁当やお惣菜を買うだけならインプットだろう。
気持ちが能動的な場合に、自分の行動をアウトプットだと勘違いしてることが多いような気がする。
行動することはアウトプットなのだろうが、何のために行動するかではインプットになってしまうのだ。
自分の行動を振り返ると、アウトプットしてるつもりでインプットしてることがまだまだ多いなと気付く。