『人はパンのみに生くるにあらず』、このことばを使う人の多くは生活はできれば良いのではなく、充実させなければならないという意味で使うことが多いかもしれない、わたしがそうだった。
由来は聖書に遡るのでキリストの発したことばであり、この後に『神の口から出る一つ一つの言葉による』と続く。
ところで、日本では『食うためには…』という表現や言い回しが良く使われる。
この言い回しが使われる場合には暗黙の前提として『衣食が足りないから礼節は尽くせない』が見えてくる。
衣食が足りなくなっても最後まで持ってるものが自由だ。
ここでいう自由は、好きなことが好きなようにできるという自由からは程遠いものだが、自分の行動を自分にできる範囲で決められるという自由。
自由のもとで許されないのは、他人の自由を奪うこと。
だから、自由が奪われるというのは罰と同じになるので、罰を受ける人からは自由が奪われる。
食うためには悪いことでもなんでもする人は多いが、そんな人ですら恐れるのが罰として自由を奪われることだが、いよいよ食うに困りながらも他人の自由は尊重したいと思うようになると、食うことと自由を交換するようになる。
食うためにやってることが犯罪という人は、いっそ逮捕されて刑務所で食にありつけるほうが幸せかもしれないと思うだろうし、犯罪などしたくないが食うためにブラック企業やブラック労働に自分を差し出す人もいるだろう。
意識的にそう行動してる人もいれば、無意識のうちにそういう方向に向かってしまう人もいるだろう。
コロナが起きる前から格差の拡大が、パンのみに生きてる人を増やしていたが、コロナがその傾向に一層の拍車をかけている。
振り返ると、現代人は『人はパンのみに生くるにあらず…』の後に『不味いパンより美味しいパンのため』となっていたので、『美味しいパンが食べれないなら不味くて良いから欲しい』となってるように思えてしょうがない。
困ってる人を揶揄するつもりではなく、パンを食べるに困ってない人は何を求めているのだろうかということに興味があるのだ。
現代人はどこに向かおうとしてるのだろうか?
コロナがすっかり人間社会を混乱させているが、コロナは人間を困らせようとしてるのではなく、勝手に人間が一人で困ってるだけなのではないだろうかと思えてくると、コロナは神の口から出た一つ一つの言葉の一つかもしれないと思えてくる。