いつもより遅く2020年の梅雨が全国的に明け始め、強烈な陽射しに襲われ始めると、梅雨の頃のことは過去の出来事になってしまう。
梅雨の豪雨での被害者というのはいつの間にか意識の中では死亡者や行方不明車や負傷者だけになってしまう。
しかし実際にはその何十倍、何百倍の、被災者にカウントされない被災者がいるのだ。
家が全壊したり半壊したりしても命や体は無事だった人や、家は無事でも周りの環境がガラッと変わったりした方達は、世間からは何事も起きなかった人達としてカウントされ、梅雨明けとともに記憶から薄らいでいく。
過去の災害の被災者にも当て嵌まるのだろうが、無事だったとカウントされた人ほど苦しい思いを強いられ続けるということを忘れてはいけない。
いつまでも屋根にブルーシートがかけられたままの家がある、たまたま通りかかった人が見たらリフォーム中かなとしか思わないかもしれない。
すぐには解決しない問題や悩みをそのままにしたまま、新たな災害や事件や事故がさらに上書き保存を繰り返す。
上書きされた人たちは、被害や被災から回復できてないにもかかわらず、回復したかのように扱われ、ともすれば被害や被災すらなかったことにされてしまう。
世の中の変化や動きが早くて激しい場合、このようなことはあらゆる分野で起こる。
全てが一過性のものとして扱われるのだ。
おそらくコロナでもそれは起きるし、すでに起きている。
被害者や犠牲者にカウントされるのは死亡者やECMO(人口肺装置)に繋がれたような重傷者だけで、軽傷や無症状と扱われた人々は世間では『騒ぎすぎ!』と扱われている。
ここから先は当事者にしか分からないが、軽傷や無症状で検査の結果陰性で全く異常なしと診断された人の中には、その後なんとなくの体調不良が慢性化してるような症状を訴える人が少なくないと感じられる話をよく聞くようになった。
先入観で持ってる被害者や犠牲者のイメージとかけ離れていると、雑な扱いを受けるという二次被害や三次被害があるのだ。
雑な扱いが増えていることは全ての人が感じているはずだ。
『自粛自粛』と呼びかけていたかと思えば、その舌の根が乾かないうちに『GoTo、GoTo』と呼びかけ、それに異論が出ればまた付け焼き刃的に対処するの繰り返しが行われる。
このようなことは、大事で重要なことが一つではない時に起こりがちで、人それぞれに優先順位やプライオリティが違うものが同じ土俵で天秤にかけられるから起きてしまう。
自分の身を自分で守るためには、自分の判断や自分の裁量だけで機能できる余地を身の回りに確保する必要がある。
何をどうするかは、自分が属する環境による。
これからは、基本的には被害に遭わない生き方が大事になる。
その場合、リスクヘッジをどうするかだが、保険があるから大丈夫ということが成り立たなくなると思った方が良いだろう。
保険は、コロナ対策におけるマスクのようなもので、いざというとき自分を守るものというよりも、エチケットやマナーのようなもので、そのためのコストは税金と同じようなものだと諦めるしかないだろうと感じてる。
多様化の時代といわれるが、被害のありようも多様化している。
多様化は分散化でもある。
多様化し、分散化すればするほど、共感や共有は遠ざかる。
結果として被害を受けると孤立化を余儀なくされることが増える。
ともすれば良い目に合うことを目標に設定することが多いが、これからは被害に遭わないことを目標に設定する方が賢明な気がする。
分かってるようで分かってないのが後悔先に立たずだ!